●● 命短し恋せよ乙女 ●●
命短し恋せよ乙女。
大正の時代ゴンドラの唄とやらのワンフレーズ。
私は乙女とは――老いというものを気にせずに過ごす事ができる唯一の期間である、と思っている。
未熟で、頭の中はすっからかんで、そのくせ楽観的。
当然失敗なんて山の様。
それが大人になってくるにつれ上手くやり過ごせるようになると言うのだから不思議なものだ。多少の事では動じなくなる。
反面、経験と言う枷が、世間体が、年齢とともに現れる老いが少しずつ自分を臆病にする。
その考えはここ数年でより確かなものに感じられた。
子供でいる時間。今はとても長い、無限のように感じられ永遠に続くように思える。
けれど実際はあと数年。高校二年の私に残された時間は実はごく僅か。
若さなどすぐに自分から過ぎてしまう。
その事に気づいたのは、告白をするべきかどうか悩んでいる時だった。
想い人と一緒の帰り道、躊躇いの中閃いたのは、何か自分を後押しするものが欲しかったからなのだろう。
初恋の相手は、昔から付き合いの有る男友達。別名幼馴染。
あまりにありふれた構図に私自身呆れもしたが、好きなのだから仕方ない。
チャンスは今しかない。そう自分に言い聞かせたのは逃げ出したい気持ちを叱咤するため。
私は自分の臆病風を振り払って彼に相対した。
急に私が立ち止まって、見つめるものだから彼は不思議そうに私を見返す。
恐らく一瞬の沈黙。永遠にも思える緩やかな時間。
私は勇気を振り絞る。
「……好き」
だと言うのに口に出たのはそんなありきたりな言葉。
不器用な私にはそれが精一杯。頭で何回もシミュレートしたはずの言葉は頭の中から消えていた。
想いを言葉にする事が、こんなにエネルギーを使う事だったのかと初めて感じる。
驚いたように呆けた顔で、彼はその言葉を受け取った。
「……ごめん」
続く言葉は余計に私を傷つけた。
私は彼以上に間抜けな顔をしていただろう。
耳をふさいで、そのまま何もなかった事にしたかった。けれど、そんな気力も起きなくて彼が私の想いを断る理由を他人事のように聞いていた。
彼は、私を傷つけたと思ったのだろう本当に申し訳なさそうにしていた。それが余計に辛い。
「……はは、振られちゃった。ま、そーだよね、うん。気にしないで、これからも友達って事でよろしく」
涙も出さず私は笑顔で言い切った事に自分自身でも驚いた。
心と体が離れたみたいに、明るい調子で私は言葉を紡いだ後笑ってさえ見せた。
それは恐らく、何事も無いように、今までと変わらぬように、終わりを否定したかったから。
でも結局彼とは元には戻れない。一緒には居られない。告白とはそう言うもの。今までの関係を私は全て断ち切ってしまった。
それからは今までのように気軽に会う事も、話す事も無くなった。
私の初恋はとてもあっけなく終わったのだった。
「なんか、あんた最近変わったよね」
青葉と一緒に昼食の弁当を食べながら、私は気になっていた事を口にする。
「そう?」
二つの机を合わせ私と向かい合わせの青葉。
クラスで一番小柄な彼女は上目づかいで私を見つめている。
上を向いたため、拍子に最近お気に入りのポニテールの髪がふわりと揺れる。
彼女はその言葉に明らかに動揺していた。
何かあるな、と私は確信し自分の好奇心従って言葉を紡ぐ。
「うんとね、何て言うかちょっと女の子っぽくなった」
「そんな事は無いよ」
自覚が無いのか堂々と否定の言葉を笑って返す青葉。
「嘘。だって最近、髪型を気にするし、文房具も可愛らしい物に急に変えたし、生意気な言葉も減った」
「……そんな事無いって」
思案する様に視線を天井に向け、思い当たる節があったのか声が小さくなる。非常にわかりやすい。
「お姉さんに言ってみなさいな」
同級生なのだからもちろん言葉のあやであるのだけれど。
青葉は悩むような素振りの後、私を真っ直ぐ見つめた。不安そうな青葉の瞳に私の姿がくっきりと映る。
誤魔化しても私の追及が来る事を予想したのか、青葉は抵抗をあっさりと諦めたようだった。
わざとらしい溜息をつく。
「誰にも言わない?」
そう言った青葉は怒られるような悪戯を打ち明ける子供のよう。
「うん、約束する」
私は言った。答えを聞くための嘘ではなく本心からの言葉だ。
他の人間が相手だったなら人見知りな青葉の事だからきっと口を閉ざしたことだろう。それを話そうとしてくれるのは私を信頼しているから。だからこそ、私も応えないと、と思うのである。
とっても可愛いし。
教室の中はクラスメイト達の話し声が途切れることなく飛び交い続けている。良く言えば賑やかな、はっきり言って騒がしい。
此処で告白したとしても誰も聞くものは居ないだろう。みんなそれぞれのグループで勝手に騒いでいる。他のグループなんて気にしない。此処で別の世界を築いている。完全不干渉。
私と青葉、クラスでも浮いた存在ならなおさらだ。
「好きな人が出来た」
普段の堂々とした物言いとは違い、呟くように青葉は私に打ち明けた。教室の喧騒に掻き消えそうな声。でもはっきりと私の耳に届いた。
「へえ。相手は誰?」
完全に好奇心丸出しの私。そんな私の態度を不機嫌そうに睨んで青葉は無言の抗議をするが私は軽く受け流す。
「……紙に書いて良い?」
直接口に出すのも恥ずかしいのか、そんな可愛らしい事を青葉お嬢様はのたまった。
「うん、いいよ。さすがに誰かに聞かれたくは無いもんね。あ、日本語でお願いね。私他の言語わからないから」
「……うっさいな、わかってるわよ」
他の言語とは、一時期青葉がはまっていた自作の架空言語の事である。
余りに面白い出来だったので、今も時々からかいの材料として使っている。
将来綺麗になるだろうな、と思わせる愛らしい相貌。そんな青葉は膨れっ面さえ絵になる。思わず抱きしめたくなるが、そんな事をすると余計不機嫌になるので諦めることにする。
青葉が机から出したのは使い終わった数学のプリントとデフォルメの熊のプリントが入ったシャープペンシル。
いつものように、裏側には当たり前のように落書きが施されている。
今回は彼女が最近はまっていると言う魔法少女の絵。かなり丁寧な書き込みがなされていて、時間がかかった事だろうと思われた。
これで成績はクラスでも上位なのだから世の中不公平だ。
青葉はプリントの裏の空白の部分に想い人の名前を記す。想い人の事を想ってか、若干顔が赤い。
頬を朱に染めながら真剣に書き記す様は見ていて、微笑ましいのを通り越してなかなかにシュールな光景だった
「……出来たわよ」
そう言って、恥ずかしそうに青葉は私に紙を渡す。
「どれどれ」
受け取ったプリントに刻まれた人物の名前を見た私の最初の反応は固まる事だった。
〔相場宗助〕
それは私が恋をした人の名。
本気で好きになって、告白し、見事破れた苦い思い出。
失恋をチョコレートに例える人も居るが私にとってそんなものじゃない。口に入れるのも恐れる、そんな劇薬。
あの時の想いが蘇り、私は急に胃が痛くなった。
秘密を暴露した恥ずかしさのためか、私の様子に気づいていない青葉は恥ずかしそうに手で髪を弄っていた。
「……この人が想い人、か」
呟くように私は言った。どんな感情か自分でも把握できなかった。ただ、色々渦巻いていた。
ぐるぐる。メビウスの輪に例えられよう。無限ループ、負のスパイラル、――とにかく気分が悪い。
「古臭い言い方ね」
「でも、間違ってないでしょ」
「……まあ、ね」
歯切れが悪い言い方であるものの、青葉は事実を認めた。青葉の顔はまさしく恋する少女の物だった。少し前、私が抱いた常に心臓を締め上げるような狂わしいほどの強い感情。
何だか懐かしく、それで居て私の中から抜け出した、戻らないもの。
「好き、なんだ」
「うん」
恥ずかしそうに頷く青葉。しきりに、自分の髪――最近お気に入りのポニテール、を弄っている。
そんな彼女の顔を見ている内に、自分のよくわからない、恐らく悪い分野に区分けされる感情は霧散していた。
いつの間にか自分の気持ちに諦めがついていたのかもしれない。
それでも心の隅に残るしこりは確かに残っていたけれど、それを私は押さえ込んだ。これは私の問題なのだから、青葉は関係ないのだ。自分自身に言い聞かせるうちに胃の痛みも消えた。
代わりに単純に応援してあげたい気持ちが残った。
私は思考する。どうすれば青葉の思いは届くのかと。いつの間にか教室の喧騒は意識から外れていた。
「どうしたら良いかな。浩介さんはどう思う」
座り心地の悪い赤い丸椅子に腰掛け私は問うた。
此処は学校から十分ラーメン屋小月。私のバイト先である。
四時過ぎと言う半端な時間のため、店に客の姿は無い。常連さんも部活帰りの学生もあと二時間は来ないだろう。
奥の厨房で仕事をしている店長を除き店には私と店長の息子の浩介さんのみ。
「俺に聞くな」
話を振ったのに浩介さんは相変わらず気の無い返事。私に構わず黙々と机を拭いて回っている。
目元が少しきついけれど、なかなかに整った顔をしている浩介さん。顔だけで言わせて貰えば、もてる方だと思う。
けれど店長曰く、そんな相手が居た事は今まで一度も無いと言う。恐らくその無愛想のせいだと私は考える。
長年使い込まれた店内は当店自慢の醤油ベースのラーメンのスープの湯気が、夕日の茜に照らされて少し幻想的。
匂いは食欲をそそる、完全に俗物そのものだけど。
「こいつにわかるわけねえだろ」
話を聞いていたのか、厨房から店長の声。
見ると、丁度追加のチャーシューを奥の保存庫から持って来ている所だった。
白いタオルを頭に巻いたその顔は、衣装さえ変えればヤーさんでもおかしくはない。
ガタイの良い体は数キロはある肉の塊を軽々と運んでいる。五十歳を過ぎてなお衰えぬ筋肉はメタボで苦しむ私の父とは大違い。
「じゃあ、店長はわかりますか?」
「いんや、俺は見合いだったから」
どっちも、どんぐりの背比べか。
「デート、とかした事無いんですか?」
「そりゃあるさ、映画とか、花見とか。ただ落ち着いて互いの事がわかる様になってからだから参考にはなるまいよ」
当時を思い出したのか、頬を緩めた店長の表情は彼にしては比較的穏やかな顔だった。
「それまでは?」
「放りっぱなし。ラーメン屋をする前はずっと建築現場に入り浸りだったからな。よく出来た嫁だったよ」
数年前に病気で亡くなった妻を想ってか、遠くを見つめる店長。
「郁恵、お前はどうなんだ。そう言う年頃だろ」
「振られました、――って雇われる時説明したじゃないですか」
つい、ジト目で店長を睨んでしまう。
そもそも振られたことがきっかけで、この店のアルバイトを始めたのだ。
――正確には、雨の中泣き続けている私を見かねた浩介さんが、この店に連れてきたのだけれど。
そう言えば、と話題を逸らすように店長は不自然に呟いた。
「取っていた新聞の抽選が当たったんだが、いるか?」
「――何です?」
「あれだ、最近出来た水族館の招待券。此処に六枚ある。青葉ちゃんと彼に渡せば良いだろ」
「露骨過ぎですよ。告白以前に遊びに行く間柄でもないし」
「……そうだな、それに変わった子だし柄じゃないか」
この店に来た時の事を思い出したのか、唸るように店長は言った。
「あの格好さえなけりゃ可愛らしい子だと思うんだけどな」
青葉は一言で言うと変人。妙に二次元とやらにのめり込んでしまった様で、普段の言動が漫画やアニメのキャラクターを真似ているのか妙に芝居がかった感じ。
服装だって、普段からメイド服やアニメのコスプレと思われる衣装を嬉しそうに着ている。
そのため、クラスでは浮いている、どころか完全に孤立している。クラスメイトとは強固な壁によって分断されていて、お互いに完全に無干渉。
おかげでいじめも無いが、付き合いも無い。私と真のオタクの間中以外とは一切交流が無い、孤独な学園生活を送っている。
正直、アニメや漫画にさしたる興味が無い私は、青葉の趣味に理解があるわけではない。ただ受け入れている。それだけだ。
私にとって今や長い付き合いの青葉は妹のような、大切な存在だ。例え、芝居がかった口調で話すようになって、コスプレして、電波的な発言をしても青葉である事に変わりは無い。
付き合ってみれば良い子なのだ。人見知りで、意地っ張りで、でもとても真っ直ぐ。
駄目か、と残念そうに言う店長。しかしふと思いついたように不気味な笑みを浮かべる。
例えるなら、目障りな敵対する組を潰す算段を思いついた時の様な。
嫌な予感がする。
「郁恵、お前も行けば良いじゃねえか。男友達ぐらい居るだろ? そいつら誘ってまとめて行っちまえ」
「それは――」
「やめとけ」
私の言葉を遮って、浩介さんが言う。相変わらず、黙々と店のあちこちを掃除している最中だった。
一言だけ言って、訝しげに睨む店長を気にする風も無く、浩介さんは作業に戻る。短い付き合いだけれど、それが気遣いである事がわかった。
やめとけ、傷つくだけだ。そんな忠告。
――なんだかそれが嬉しくて。甘美な響きに思えた。だからこそ私は決めた。
「そのチケット、頂きます」
前に進むためには、向き合わなくてはいけない。そう思い私は店長に告げた。
胸が痛み始めたが、丁度助け舟とばかりにお客がやって来て私は想いを握りつぶした。
「と言う訳で、明日水族館ね」
青葉の家で、借りた本を読みながら私は言った。因みに本のタイトルは「月夜の霞」
やおい本? と青葉に聞いたら怒られた。
男と男の爽やかな触れ合いの物語だそう。――理解は出来る、と言うのが私の感想。
現実はもっと生々しいけれど。男と女、男と男、女と女。組み合わせは違えど人間同士。
本の中ぐらい夢があっても良いんじゃないか、と思う。ただ、私の好みに合わないけれど。
「……は?」
ベッドの上で本を読んでくつろいでいた青葉はそう言って、私に目を向けた。
驚愕。そんな言葉が当てはまるほど慌てていた。
「そんなに驚かないでよ」
「もう一度問うわ。――あなた、今何と仰ったのかしら?」
突然の事に非現実モードに移行する青葉の口調。中途半端になりきれて無い焦り様が見ていて微笑ましい。
「だから相場と水族館」
「無理」
即答。おまけに口調が戻ってる。
「私と他にも誘うから」
「……今宵は、激しくしくなりそうね」
窓と反対の方向を眺める青葉。完全にパニックだ。
目線の先には大量の本の山。殆どが漫画とラノベと言うらしい小説。
一部私の持ってきたマーガレットやフラワーコミックが混ざっている。
「自家発電に?」
つい、ふと浮かんだ事を口にする。言って後悔する。仮にも年頃の女の子が口にして良いものではない。
「んな訳あるかー!! あー、もう」
役に入る事を諦めたのか、半分自棄になったように、本を置いて、ベッドに仰向けに倒れこむ青葉。
近くにあった大きなウサギのぬいぐるみを抱え込みながらの膨れっ面。
白い生地に黒い刺繍とリボンフリルとレースが着いた通称欧米風ゴスロリワンピースを着込んだ青葉はいったい何処の国のお姫様なのだろう。
黒いニーソックスを履いた足で、バタ足をするように青葉は足を上下に動かす。
「良い機会じゃん」
「突然過ぎ」
「こういうのって、勢いが大事だよ」
「だからって、……私に一言言ってよ」
「あー、ごめん私も思いつきだから。―――で、どうするの? 相場は行くってさ」
「え、もう誘ったの!?」
「うん」
バイトが終わってすぐ、携帯電話にて私が誘った。振られた手前、話し掛けづらかったけれど昔と変わらず彼は快く誘いに応じてくれた。
「……行く」
「お、決断はやいね」
「だって、確かに遅かれ早かれ向き合わなくちゃ」
そう言う青葉の顔には既に迷いは無かった。少し前の私は迷ってばかりだったと言うのに、芯の強い子なのだろう。
早くも興奮して紅潮する青葉が可愛くて、思わず頭を撫でる。柑橘系の良い香りが微かに空間に広がる。
当日私達は浩介さんが運転する白ワゴンに乗っていた。
メンバーは、私に青葉、相場、そして――間中。
私は間中が苦手だ。嫌いではない。その前の段階、生理的に受け付けないのかもしれない。
オタク=間中と言う方程式が成り立つと私は自信を持って言える。眼鏡をかけててぽっちゃりしてて、Tシャツ(アニメのキャラクターらしい女の子がプリントされている)にジーンズがお気に入り。いつもその手の文庫本を持ち歩いている。
堂々としていて、いっそ清々しい。だからこそ、余計引いてしまう。裏は無いだろうが表が酷い、それが私に対する間中のイメージだ。
このメンバーになったのは、私と青葉に男友達なんて居なかったから。唯一間中が青葉と友達である間中と言う訳。
自分にメリットの無い快く引き受けてくれたから、悪い性格ではないのだろう。
現在、助手席に私、後ろに三人という構図。どう言う訳か後ろはかなり会話が盛り上がっているよう。
耳を傾けると、恐らく流行のゲームの話。私にはさっぱり。楽しそうだから良いけれど。
得意分野だからなのか、青葉もいつもの調子で喋ってる。
青葉は青い無地に白のボーダの入った七分袖のチュニックに、レース柄のプリントが入ったジャージスカート。
今日は何も無しの黒髪ロング。張り切りすぎず、かと言ってラフ過ぎず。適度に力が抜けた格好だと思う。
本人はメイド服を熱望したが、私が断固拒否した。そんな物、水族館では浮くのが目に見えている以前に相場が引くのは間違いない。――引かなければ私は嫌だ。
妥協案として、何かのキャラクターとほぼ同デザインの出来るだけ普通っぽい服にしようとしただけれど、選ぶのに三時間を要し諦めたのは良い思い出となりつつある。
「ごめんなさい、休日にこんな事頼んで」
隣で運転する浩介さんに私は言った。
「全くだ」
不機嫌そうに返答する浩介さん。
「――もしかしなくても怒ってます?」
「ああ。親父にな。お前じゃないから気にするな」
どうやら、直接的に役割を押し付けた店長に怒りの矛先が向けられているようだった。本当は私に向けられても良いような気がするが、怖いので黙っておく。
それ以上特に話す事も無く、暇なので、後ろの会話に聞き耳を立てる。
「それにしても、久留米さんって変わってるな」
お、相場いきなり危ない所を……。
「そ、そう? …… 自分では普通にしているつもりなんだけど」
「それがいいのではないの、相場君。まさしく二次元の権化、女神と言っても過言ではない存在ではないか」
「お前も大概だけどな。――いっそ付き合えば?」
――っ、きつい、いきなりピンチ!
青葉明らかに動揺してるし、落ち着け、ただの冗談だよ! 私は心の中で叫ぶ。
バックミラー越しに三人の会話に耳を傾ける私が一番動揺してるのかもしれないが置いておく。
「それは……」
「? 何で。仲良さそうじゃん」
鈍感なのか相場は青葉の顔が真っ赤になっている事に気づかず問いを重ねる。
お前の事が好きなんだよ!!
叫びたいが叫べない。打開策が無い。けれどこのままじゃ、場が嫌な方向に向かってしまう。私は焦る。
「無理だ」
黙っていた間中が割って入るように言った。相場と青葉が怪訝な顔をする。
「三次元の女に興味は無い」
堂々と間中は言い切った。
言っている事はむちゃくちゃで、さっきと言っている事が噛み合わないけれど有無を言わせぬ強制力を持っていた。
「そ、そうか」
相場はドン引き。青葉はほっと一息。私は相場と同じく間中の言葉に驚いていたものの何故か嫌悪感は無かった。
……余計付き合いたくなくなったけれど。
「着いたぞ」
タイミング良く目的地に着き間中が引き起こした白けた空気が悪影響を及ぼす事はなかった。
ああ、青空が青い。
「おー、見てみて、魚があんなに一杯泳いでる!」
当初の目的なんて忘れたかのようにはしゃぐ青葉。
視線の先には群れになって泳ぐ魚があった。
数種の魚が色とりどりそれぞれ不規則に動かず一定の線となって動く。その様は確かに見とれるほど綺麗。
「本当だ。海の中にいるっぽい」
私はそう言って、水槽を見渡す。視界の中は泳ぐ魚の群れと大量の水。確かに海の中に潜った気分になってくる。
「いこっ、相場!」
「お、おう」
いきなり相場の手を掴んで、別の水槽に移動する青葉。
ずいぶん積極的なのは、本当に楽しいからなのか。
相場も満更ではなさそう。
青葉の幼い容姿のせいで兄妹にしか見えないのが辛い所。
その後ろに付いて行く間中は完全にストーカーにしか見えない。いつの間にかカメラ構えて青葉たちを撮ってるし。
怪訝そうに眺める周囲の人間の視線が、痛い。私に向けられているわけでもないのに、申し訳なくなってくる。
「……何してんの」
堪らず私は間中に声をかける。周囲の視線が私にも向けられる。――きつい。言葉では表せないとにかくこの場から逃げ出したい衝動をどうにか抑える。
「青葉に頼まれた写真撮影だが?」
何を当たり前のことを、と怪訝そうに聞いてくる間中。余りに自然な返事だったので、どう返して良いかわからなかった。
助けを求めるように私は無表情に私の後ろに付いて歩いていた浩介さんを見る。
「個性だろ」
「……うん、――そうなのかな?」
「何してる、行くよみんな!」
痺れを切らした青葉が叫ぶ。
思考を中断して私は歩く事にした。
私は今後悔していた。
相場と二人きり。
以前はとても嬉しくて、でも今はとっても辛い。
一通り水族館を回り終わり昼食の時間になった。
食事を取るため水族館内の休憩所に私たちは向かったのだけれど。
水族館の途中で弁当は買っていたものの、飲み物は回っている途中で飲み干していた。
しょうがなくじゃんけんで、負けた者二人が買ってくると言うことにしたのだけれど、まさか私と相場が負けるとは。
二人、話すことなく歩く。
以前はあったじゃれあいも、馬鹿話も今は昔に感じる。
相場が遠くに居る。そう思えた。私ではもう触れる事は出来ない。
現実の距離は数メートルも無い、数歩だけの間。私は相場の後ろに付いて行く。
私は馬鹿だ。今もこんなに未練が残ってるなんて。
「なあ」
最初に口聞いたのは相場だった。
「何?」
努めて何でもない風を装って私は言った。
「ごめん」
いきなりの謝罪。
「……謝らなくて良い」
余計に傷つく、と言う事がわからないのだろうか?
「でも――」
「あんたには好きな人が居るんでしょ。だったらそれで良いじゃない。――ショックは受けたけどさ。てっきり私の事が好きだと思ってたから」
口にして改めて気がつく馬鹿な勘違い。仲良くて一緒に居てもそれは兄妹のような家族のような物だった。私が抱いた感情ではない。
「今は、大丈夫。あんたも頑張りなさい。せっかくの機会なんだから」
それより、と私は相場の前へ出る。
ああ、言ってしまった。心のどこかで私は嘆いてた。これで終わりと泣いていた。諦めたと言いつつ未練がましい私の心。
けれどそれは未練であって、あの燃える様に熱い力はなかった。
既に諦めはついていた。思い出に変わりつつあった。一番ではなくなった気持ち。その事を否定したい自分に気がついた。
風化していく想いから、私は目を背けるのを止めた。
「仲直り」
そう言って、私は微笑み右手を差し出す。
「これで元通り――は無理だけど、でもこのままじゃ淋しいから」
相場は照れくさそうにでもしっかり私の手を握り返す。
完全に恋は終わり、また新たに私たちは繋がりを持つ。きっとしぶとく続く腐れ縁となるだろう。
「なんか、兄妹喧嘩の後だよな、この感じ」
相場が照れくさそうに言う。
「あ、そんな感じ。お姉ちゃんの私が譲歩した、みたいな?」
「うっせ、俺が兄貴だ」
「バーカ、ロリコン野郎」
いつもの調子で私たちは言い合った。
今日最大のイベント告白タイム。
青葉と相場を二人きりにする。
そのチャンスは、無理やり作った。私はトイレ、浩介さんは煙草、間中は――とにかく強引に抜け出した。
荷物番を頼んで、そのまま三人は少し離れたクラゲの水槽の前。
のんきなクラゲ達は水の中をただゆらゆら目的無く浮かんでいる。
苦労なんてした事無いんだろうな。
「さっきトイレに行っといて、余りに理由がわざとらしくないか?」
クラゲをぼんやり眺めていると、暇だったのか間中がそう声をかけてきた。
責める様な物言いだったので、思わず私はむっとする。
「うっさい、それよりあんたの抜け出した理由のほうがわかんない」
「自分自身わからん」
「……浩介さんも、煙草吸わないでしょ」
つい浩介さんにまで怒りの矛先をぶつけてしまう。
「誰も知らないから良いだろ」
特に気分を害した風でもなく、そう言って浩介さんは受け流す。
「でも、こんな事で上手く行くのか? 青葉が告白できるとは限ら無いと思うのだが」
「いい。あの子が出来なくても相場がする」
その問いこそ、愚問そのもの。私は思わず溜息をつく。
「どういう事だよ?」
「両思いなのよ。お互いに」
――振られた時相場は青葉が好きだと告白し、青葉も相場が好きだった。
好きになった理由は部外者の私にはわからない。ただ、わかるのはきっかけが必要だったと言う事。
「……要らん、世話だったのか」
「かもね。実際私のおせっかい、と言うか踏ん切り付けにやった事だし」
何に対しての踏ん切りか、はあえて省いた。
「……そうか」
「そう」
しばらくの沈黙。
と思った矢先、間中は突然泣き出した。
「え? ちょ、どうした!?」
いきなりの出来事に私は狼狽してしまう。
「うるさい、気にするな。泣きたいだけだ」
答えになっていなかったが、ふと、一つの考えが浮かぶ。
「まさか――好き、だったの。青葉の事?」
頷く間中。
「え、だって、三次元に興味は無いって――」
「そんなもの、嘘だよ。好きだよ、……でも、僕みたいなのと、付き合わないほうが――」
最後はただの嗚咽に変わっていた。涙で濡らして、ただでさえ近寄りがたい顔が余計に歪んで、でも、気持ち悪いとは思わなかった。
否。気持ち悪いと思うことは思ったけど、それより別の気持ちが湧いていた。
思い出す。空気がぶち壊しだったけれど、確かに間中は助け舟を出していた。――様に見えなくも無い。
背中を擦ってやる。ちょっと汗で湿っていたけれど、でも我慢した。
お前は良い奴だ、間中。少し見直したよ。
友達になっても良いかな、と少しだけ思えた。
泣き止むまで私は付き添い、いつの間にか居なくなっていた浩介さんは買ってきた炭酸水とティッシュを渡す。
間中が泣き止み、戻って帰ってその日は終わった。どうなったかはわからない。
でも、幸せそうな青葉の顔が全てを物語っているのだろう。
私の初恋は完全に終わりを告げた。
Copyright (c) 2013 yoshimiya shizuku All rights reserved.
大正の時代ゴンドラの唄とやらのワンフレーズ。
私は乙女とは――老いというものを気にせずに過ごす事ができる唯一の期間である、と思っている。
未熟で、頭の中はすっからかんで、そのくせ楽観的。
当然失敗なんて山の様。
それが大人になってくるにつれ上手くやり過ごせるようになると言うのだから不思議なものだ。多少の事では動じなくなる。
反面、経験と言う枷が、世間体が、年齢とともに現れる老いが少しずつ自分を臆病にする。
その考えはここ数年でより確かなものに感じられた。
子供でいる時間。今はとても長い、無限のように感じられ永遠に続くように思える。
けれど実際はあと数年。高校二年の私に残された時間は実はごく僅か。
若さなどすぐに自分から過ぎてしまう。
その事に気づいたのは、告白をするべきかどうか悩んでいる時だった。
想い人と一緒の帰り道、躊躇いの中閃いたのは、何か自分を後押しするものが欲しかったからなのだろう。
初恋の相手は、昔から付き合いの有る男友達。別名幼馴染。
あまりにありふれた構図に私自身呆れもしたが、好きなのだから仕方ない。
チャンスは今しかない。そう自分に言い聞かせたのは逃げ出したい気持ちを叱咤するため。
私は自分の臆病風を振り払って彼に相対した。
急に私が立ち止まって、見つめるものだから彼は不思議そうに私を見返す。
恐らく一瞬の沈黙。永遠にも思える緩やかな時間。
私は勇気を振り絞る。
「……好き」
だと言うのに口に出たのはそんなありきたりな言葉。
不器用な私にはそれが精一杯。頭で何回もシミュレートしたはずの言葉は頭の中から消えていた。
想いを言葉にする事が、こんなにエネルギーを使う事だったのかと初めて感じる。
驚いたように呆けた顔で、彼はその言葉を受け取った。
「……ごめん」
続く言葉は余計に私を傷つけた。
私は彼以上に間抜けな顔をしていただろう。
耳をふさいで、そのまま何もなかった事にしたかった。けれど、そんな気力も起きなくて彼が私の想いを断る理由を他人事のように聞いていた。
彼は、私を傷つけたと思ったのだろう本当に申し訳なさそうにしていた。それが余計に辛い。
「……はは、振られちゃった。ま、そーだよね、うん。気にしないで、これからも友達って事でよろしく」
涙も出さず私は笑顔で言い切った事に自分自身でも驚いた。
心と体が離れたみたいに、明るい調子で私は言葉を紡いだ後笑ってさえ見せた。
それは恐らく、何事も無いように、今までと変わらぬように、終わりを否定したかったから。
でも結局彼とは元には戻れない。一緒には居られない。告白とはそう言うもの。今までの関係を私は全て断ち切ってしまった。
それからは今までのように気軽に会う事も、話す事も無くなった。
私の初恋はとてもあっけなく終わったのだった。
「なんか、あんた最近変わったよね」
青葉と一緒に昼食の弁当を食べながら、私は気になっていた事を口にする。
「そう?」
二つの机を合わせ私と向かい合わせの青葉。
クラスで一番小柄な彼女は上目づかいで私を見つめている。
上を向いたため、拍子に最近お気に入りのポニテールの髪がふわりと揺れる。
彼女はその言葉に明らかに動揺していた。
何かあるな、と私は確信し自分の好奇心従って言葉を紡ぐ。
「うんとね、何て言うかちょっと女の子っぽくなった」
「そんな事は無いよ」
自覚が無いのか堂々と否定の言葉を笑って返す青葉。
「嘘。だって最近、髪型を気にするし、文房具も可愛らしい物に急に変えたし、生意気な言葉も減った」
「……そんな事無いって」
思案する様に視線を天井に向け、思い当たる節があったのか声が小さくなる。非常にわかりやすい。
「お姉さんに言ってみなさいな」
同級生なのだからもちろん言葉のあやであるのだけれど。
青葉は悩むような素振りの後、私を真っ直ぐ見つめた。不安そうな青葉の瞳に私の姿がくっきりと映る。
誤魔化しても私の追及が来る事を予想したのか、青葉は抵抗をあっさりと諦めたようだった。
わざとらしい溜息をつく。
「誰にも言わない?」
そう言った青葉は怒られるような悪戯を打ち明ける子供のよう。
「うん、約束する」
私は言った。答えを聞くための嘘ではなく本心からの言葉だ。
他の人間が相手だったなら人見知りな青葉の事だからきっと口を閉ざしたことだろう。それを話そうとしてくれるのは私を信頼しているから。だからこそ、私も応えないと、と思うのである。
とっても可愛いし。
教室の中はクラスメイト達の話し声が途切れることなく飛び交い続けている。良く言えば賑やかな、はっきり言って騒がしい。
此処で告白したとしても誰も聞くものは居ないだろう。みんなそれぞれのグループで勝手に騒いでいる。他のグループなんて気にしない。此処で別の世界を築いている。完全不干渉。
私と青葉、クラスでも浮いた存在ならなおさらだ。
「好きな人が出来た」
普段の堂々とした物言いとは違い、呟くように青葉は私に打ち明けた。教室の喧騒に掻き消えそうな声。でもはっきりと私の耳に届いた。
「へえ。相手は誰?」
完全に好奇心丸出しの私。そんな私の態度を不機嫌そうに睨んで青葉は無言の抗議をするが私は軽く受け流す。
「……紙に書いて良い?」
直接口に出すのも恥ずかしいのか、そんな可愛らしい事を青葉お嬢様はのたまった。
「うん、いいよ。さすがに誰かに聞かれたくは無いもんね。あ、日本語でお願いね。私他の言語わからないから」
「……うっさいな、わかってるわよ」
他の言語とは、一時期青葉がはまっていた自作の架空言語の事である。
余りに面白い出来だったので、今も時々からかいの材料として使っている。
将来綺麗になるだろうな、と思わせる愛らしい相貌。そんな青葉は膨れっ面さえ絵になる。思わず抱きしめたくなるが、そんな事をすると余計不機嫌になるので諦めることにする。
青葉が机から出したのは使い終わった数学のプリントとデフォルメの熊のプリントが入ったシャープペンシル。
いつものように、裏側には当たり前のように落書きが施されている。
今回は彼女が最近はまっていると言う魔法少女の絵。かなり丁寧な書き込みがなされていて、時間がかかった事だろうと思われた。
これで成績はクラスでも上位なのだから世の中不公平だ。
青葉はプリントの裏の空白の部分に想い人の名前を記す。想い人の事を想ってか、若干顔が赤い。
頬を朱に染めながら真剣に書き記す様は見ていて、微笑ましいのを通り越してなかなかにシュールな光景だった
「……出来たわよ」
そう言って、恥ずかしそうに青葉は私に紙を渡す。
「どれどれ」
受け取ったプリントに刻まれた人物の名前を見た私の最初の反応は固まる事だった。
〔相場宗助〕
それは私が恋をした人の名。
本気で好きになって、告白し、見事破れた苦い思い出。
失恋をチョコレートに例える人も居るが私にとってそんなものじゃない。口に入れるのも恐れる、そんな劇薬。
あの時の想いが蘇り、私は急に胃が痛くなった。
秘密を暴露した恥ずかしさのためか、私の様子に気づいていない青葉は恥ずかしそうに手で髪を弄っていた。
「……この人が想い人、か」
呟くように私は言った。どんな感情か自分でも把握できなかった。ただ、色々渦巻いていた。
ぐるぐる。メビウスの輪に例えられよう。無限ループ、負のスパイラル、――とにかく気分が悪い。
「古臭い言い方ね」
「でも、間違ってないでしょ」
「……まあ、ね」
歯切れが悪い言い方であるものの、青葉は事実を認めた。青葉の顔はまさしく恋する少女の物だった。少し前、私が抱いた常に心臓を締め上げるような狂わしいほどの強い感情。
何だか懐かしく、それで居て私の中から抜け出した、戻らないもの。
「好き、なんだ」
「うん」
恥ずかしそうに頷く青葉。しきりに、自分の髪――最近お気に入りのポニテール、を弄っている。
そんな彼女の顔を見ている内に、自分のよくわからない、恐らく悪い分野に区分けされる感情は霧散していた。
いつの間にか自分の気持ちに諦めがついていたのかもしれない。
それでも心の隅に残るしこりは確かに残っていたけれど、それを私は押さえ込んだ。これは私の問題なのだから、青葉は関係ないのだ。自分自身に言い聞かせるうちに胃の痛みも消えた。
代わりに単純に応援してあげたい気持ちが残った。
私は思考する。どうすれば青葉の思いは届くのかと。いつの間にか教室の喧騒は意識から外れていた。
「どうしたら良いかな。浩介さんはどう思う」
座り心地の悪い赤い丸椅子に腰掛け私は問うた。
此処は学校から十分ラーメン屋小月。私のバイト先である。
四時過ぎと言う半端な時間のため、店に客の姿は無い。常連さんも部活帰りの学生もあと二時間は来ないだろう。
奥の厨房で仕事をしている店長を除き店には私と店長の息子の浩介さんのみ。
「俺に聞くな」
話を振ったのに浩介さんは相変わらず気の無い返事。私に構わず黙々と机を拭いて回っている。
目元が少しきついけれど、なかなかに整った顔をしている浩介さん。顔だけで言わせて貰えば、もてる方だと思う。
けれど店長曰く、そんな相手が居た事は今まで一度も無いと言う。恐らくその無愛想のせいだと私は考える。
長年使い込まれた店内は当店自慢の醤油ベースのラーメンのスープの湯気が、夕日の茜に照らされて少し幻想的。
匂いは食欲をそそる、完全に俗物そのものだけど。
「こいつにわかるわけねえだろ」
話を聞いていたのか、厨房から店長の声。
見ると、丁度追加のチャーシューを奥の保存庫から持って来ている所だった。
白いタオルを頭に巻いたその顔は、衣装さえ変えればヤーさんでもおかしくはない。
ガタイの良い体は数キロはある肉の塊を軽々と運んでいる。五十歳を過ぎてなお衰えぬ筋肉はメタボで苦しむ私の父とは大違い。
「じゃあ、店長はわかりますか?」
「いんや、俺は見合いだったから」
どっちも、どんぐりの背比べか。
「デート、とかした事無いんですか?」
「そりゃあるさ、映画とか、花見とか。ただ落ち着いて互いの事がわかる様になってからだから参考にはなるまいよ」
当時を思い出したのか、頬を緩めた店長の表情は彼にしては比較的穏やかな顔だった。
「それまでは?」
「放りっぱなし。ラーメン屋をする前はずっと建築現場に入り浸りだったからな。よく出来た嫁だったよ」
数年前に病気で亡くなった妻を想ってか、遠くを見つめる店長。
「郁恵、お前はどうなんだ。そう言う年頃だろ」
「振られました、――って雇われる時説明したじゃないですか」
つい、ジト目で店長を睨んでしまう。
そもそも振られたことがきっかけで、この店のアルバイトを始めたのだ。
――正確には、雨の中泣き続けている私を見かねた浩介さんが、この店に連れてきたのだけれど。
そう言えば、と話題を逸らすように店長は不自然に呟いた。
「取っていた新聞の抽選が当たったんだが、いるか?」
「――何です?」
「あれだ、最近出来た水族館の招待券。此処に六枚ある。青葉ちゃんと彼に渡せば良いだろ」
「露骨過ぎですよ。告白以前に遊びに行く間柄でもないし」
「……そうだな、それに変わった子だし柄じゃないか」
この店に来た時の事を思い出したのか、唸るように店長は言った。
「あの格好さえなけりゃ可愛らしい子だと思うんだけどな」
青葉は一言で言うと変人。妙に二次元とやらにのめり込んでしまった様で、普段の言動が漫画やアニメのキャラクターを真似ているのか妙に芝居がかった感じ。
服装だって、普段からメイド服やアニメのコスプレと思われる衣装を嬉しそうに着ている。
そのため、クラスでは浮いている、どころか完全に孤立している。クラスメイトとは強固な壁によって分断されていて、お互いに完全に無干渉。
おかげでいじめも無いが、付き合いも無い。私と真のオタクの間中以外とは一切交流が無い、孤独な学園生活を送っている。
正直、アニメや漫画にさしたる興味が無い私は、青葉の趣味に理解があるわけではない。ただ受け入れている。それだけだ。
私にとって今や長い付き合いの青葉は妹のような、大切な存在だ。例え、芝居がかった口調で話すようになって、コスプレして、電波的な発言をしても青葉である事に変わりは無い。
付き合ってみれば良い子なのだ。人見知りで、意地っ張りで、でもとても真っ直ぐ。
駄目か、と残念そうに言う店長。しかしふと思いついたように不気味な笑みを浮かべる。
例えるなら、目障りな敵対する組を潰す算段を思いついた時の様な。
嫌な予感がする。
「郁恵、お前も行けば良いじゃねえか。男友達ぐらい居るだろ? そいつら誘ってまとめて行っちまえ」
「それは――」
「やめとけ」
私の言葉を遮って、浩介さんが言う。相変わらず、黙々と店のあちこちを掃除している最中だった。
一言だけ言って、訝しげに睨む店長を気にする風も無く、浩介さんは作業に戻る。短い付き合いだけれど、それが気遣いである事がわかった。
やめとけ、傷つくだけだ。そんな忠告。
――なんだかそれが嬉しくて。甘美な響きに思えた。だからこそ私は決めた。
「そのチケット、頂きます」
前に進むためには、向き合わなくてはいけない。そう思い私は店長に告げた。
胸が痛み始めたが、丁度助け舟とばかりにお客がやって来て私は想いを握りつぶした。
「と言う訳で、明日水族館ね」
青葉の家で、借りた本を読みながら私は言った。因みに本のタイトルは「月夜の霞」
やおい本? と青葉に聞いたら怒られた。
男と男の爽やかな触れ合いの物語だそう。――理解は出来る、と言うのが私の感想。
現実はもっと生々しいけれど。男と女、男と男、女と女。組み合わせは違えど人間同士。
本の中ぐらい夢があっても良いんじゃないか、と思う。ただ、私の好みに合わないけれど。
「……は?」
ベッドの上で本を読んでくつろいでいた青葉はそう言って、私に目を向けた。
驚愕。そんな言葉が当てはまるほど慌てていた。
「そんなに驚かないでよ」
「もう一度問うわ。――あなた、今何と仰ったのかしら?」
突然の事に非現実モードに移行する青葉の口調。中途半端になりきれて無い焦り様が見ていて微笑ましい。
「だから相場と水族館」
「無理」
即答。おまけに口調が戻ってる。
「私と他にも誘うから」
「……今宵は、激しくしくなりそうね」
窓と反対の方向を眺める青葉。完全にパニックだ。
目線の先には大量の本の山。殆どが漫画とラノベと言うらしい小説。
一部私の持ってきたマーガレットやフラワーコミックが混ざっている。
「自家発電に?」
つい、ふと浮かんだ事を口にする。言って後悔する。仮にも年頃の女の子が口にして良いものではない。
「んな訳あるかー!! あー、もう」
役に入る事を諦めたのか、半分自棄になったように、本を置いて、ベッドに仰向けに倒れこむ青葉。
近くにあった大きなウサギのぬいぐるみを抱え込みながらの膨れっ面。
白い生地に黒い刺繍とリボンフリルとレースが着いた通称欧米風ゴスロリワンピースを着込んだ青葉はいったい何処の国のお姫様なのだろう。
黒いニーソックスを履いた足で、バタ足をするように青葉は足を上下に動かす。
「良い機会じゃん」
「突然過ぎ」
「こういうのって、勢いが大事だよ」
「だからって、……私に一言言ってよ」
「あー、ごめん私も思いつきだから。―――で、どうするの? 相場は行くってさ」
「え、もう誘ったの!?」
「うん」
バイトが終わってすぐ、携帯電話にて私が誘った。振られた手前、話し掛けづらかったけれど昔と変わらず彼は快く誘いに応じてくれた。
「……行く」
「お、決断はやいね」
「だって、確かに遅かれ早かれ向き合わなくちゃ」
そう言う青葉の顔には既に迷いは無かった。少し前の私は迷ってばかりだったと言うのに、芯の強い子なのだろう。
早くも興奮して紅潮する青葉が可愛くて、思わず頭を撫でる。柑橘系の良い香りが微かに空間に広がる。
当日私達は浩介さんが運転する白ワゴンに乗っていた。
メンバーは、私に青葉、相場、そして――間中。
私は間中が苦手だ。嫌いではない。その前の段階、生理的に受け付けないのかもしれない。
オタク=間中と言う方程式が成り立つと私は自信を持って言える。眼鏡をかけててぽっちゃりしてて、Tシャツ(アニメのキャラクターらしい女の子がプリントされている)にジーンズがお気に入り。いつもその手の文庫本を持ち歩いている。
堂々としていて、いっそ清々しい。だからこそ、余計引いてしまう。裏は無いだろうが表が酷い、それが私に対する間中のイメージだ。
このメンバーになったのは、私と青葉に男友達なんて居なかったから。唯一間中が青葉と友達である間中と言う訳。
自分にメリットの無い快く引き受けてくれたから、悪い性格ではないのだろう。
現在、助手席に私、後ろに三人という構図。どう言う訳か後ろはかなり会話が盛り上がっているよう。
耳を傾けると、恐らく流行のゲームの話。私にはさっぱり。楽しそうだから良いけれど。
得意分野だからなのか、青葉もいつもの調子で喋ってる。
青葉は青い無地に白のボーダの入った七分袖のチュニックに、レース柄のプリントが入ったジャージスカート。
今日は何も無しの黒髪ロング。張り切りすぎず、かと言ってラフ過ぎず。適度に力が抜けた格好だと思う。
本人はメイド服を熱望したが、私が断固拒否した。そんな物、水族館では浮くのが目に見えている以前に相場が引くのは間違いない。――引かなければ私は嫌だ。
妥協案として、何かのキャラクターとほぼ同デザインの出来るだけ普通っぽい服にしようとしただけれど、選ぶのに三時間を要し諦めたのは良い思い出となりつつある。
「ごめんなさい、休日にこんな事頼んで」
隣で運転する浩介さんに私は言った。
「全くだ」
不機嫌そうに返答する浩介さん。
「――もしかしなくても怒ってます?」
「ああ。親父にな。お前じゃないから気にするな」
どうやら、直接的に役割を押し付けた店長に怒りの矛先が向けられているようだった。本当は私に向けられても良いような気がするが、怖いので黙っておく。
それ以上特に話す事も無く、暇なので、後ろの会話に聞き耳を立てる。
「それにしても、久留米さんって変わってるな」
お、相場いきなり危ない所を……。
「そ、そう? …… 自分では普通にしているつもりなんだけど」
「それがいいのではないの、相場君。まさしく二次元の権化、女神と言っても過言ではない存在ではないか」
「お前も大概だけどな。――いっそ付き合えば?」
――っ、きつい、いきなりピンチ!
青葉明らかに動揺してるし、落ち着け、ただの冗談だよ! 私は心の中で叫ぶ。
バックミラー越しに三人の会話に耳を傾ける私が一番動揺してるのかもしれないが置いておく。
「それは……」
「? 何で。仲良さそうじゃん」
鈍感なのか相場は青葉の顔が真っ赤になっている事に気づかず問いを重ねる。
お前の事が好きなんだよ!!
叫びたいが叫べない。打開策が無い。けれどこのままじゃ、場が嫌な方向に向かってしまう。私は焦る。
「無理だ」
黙っていた間中が割って入るように言った。相場と青葉が怪訝な顔をする。
「三次元の女に興味は無い」
堂々と間中は言い切った。
言っている事はむちゃくちゃで、さっきと言っている事が噛み合わないけれど有無を言わせぬ強制力を持っていた。
「そ、そうか」
相場はドン引き。青葉はほっと一息。私は相場と同じく間中の言葉に驚いていたものの何故か嫌悪感は無かった。
……余計付き合いたくなくなったけれど。
「着いたぞ」
タイミング良く目的地に着き間中が引き起こした白けた空気が悪影響を及ぼす事はなかった。
ああ、青空が青い。
「おー、見てみて、魚があんなに一杯泳いでる!」
当初の目的なんて忘れたかのようにはしゃぐ青葉。
視線の先には群れになって泳ぐ魚があった。
数種の魚が色とりどりそれぞれ不規則に動かず一定の線となって動く。その様は確かに見とれるほど綺麗。
「本当だ。海の中にいるっぽい」
私はそう言って、水槽を見渡す。視界の中は泳ぐ魚の群れと大量の水。確かに海の中に潜った気分になってくる。
「いこっ、相場!」
「お、おう」
いきなり相場の手を掴んで、別の水槽に移動する青葉。
ずいぶん積極的なのは、本当に楽しいからなのか。
相場も満更ではなさそう。
青葉の幼い容姿のせいで兄妹にしか見えないのが辛い所。
その後ろに付いて行く間中は完全にストーカーにしか見えない。いつの間にかカメラ構えて青葉たちを撮ってるし。
怪訝そうに眺める周囲の人間の視線が、痛い。私に向けられているわけでもないのに、申し訳なくなってくる。
「……何してんの」
堪らず私は間中に声をかける。周囲の視線が私にも向けられる。――きつい。言葉では表せないとにかくこの場から逃げ出したい衝動をどうにか抑える。
「青葉に頼まれた写真撮影だが?」
何を当たり前のことを、と怪訝そうに聞いてくる間中。余りに自然な返事だったので、どう返して良いかわからなかった。
助けを求めるように私は無表情に私の後ろに付いて歩いていた浩介さんを見る。
「個性だろ」
「……うん、――そうなのかな?」
「何してる、行くよみんな!」
痺れを切らした青葉が叫ぶ。
思考を中断して私は歩く事にした。
私は今後悔していた。
相場と二人きり。
以前はとても嬉しくて、でも今はとっても辛い。
一通り水族館を回り終わり昼食の時間になった。
食事を取るため水族館内の休憩所に私たちは向かったのだけれど。
水族館の途中で弁当は買っていたものの、飲み物は回っている途中で飲み干していた。
しょうがなくじゃんけんで、負けた者二人が買ってくると言うことにしたのだけれど、まさか私と相場が負けるとは。
二人、話すことなく歩く。
以前はあったじゃれあいも、馬鹿話も今は昔に感じる。
相場が遠くに居る。そう思えた。私ではもう触れる事は出来ない。
現実の距離は数メートルも無い、数歩だけの間。私は相場の後ろに付いて行く。
私は馬鹿だ。今もこんなに未練が残ってるなんて。
「なあ」
最初に口聞いたのは相場だった。
「何?」
努めて何でもない風を装って私は言った。
「ごめん」
いきなりの謝罪。
「……謝らなくて良い」
余計に傷つく、と言う事がわからないのだろうか?
「でも――」
「あんたには好きな人が居るんでしょ。だったらそれで良いじゃない。――ショックは受けたけどさ。てっきり私の事が好きだと思ってたから」
口にして改めて気がつく馬鹿な勘違い。仲良くて一緒に居てもそれは兄妹のような家族のような物だった。私が抱いた感情ではない。
「今は、大丈夫。あんたも頑張りなさい。せっかくの機会なんだから」
それより、と私は相場の前へ出る。
ああ、言ってしまった。心のどこかで私は嘆いてた。これで終わりと泣いていた。諦めたと言いつつ未練がましい私の心。
けれどそれは未練であって、あの燃える様に熱い力はなかった。
既に諦めはついていた。思い出に変わりつつあった。一番ではなくなった気持ち。その事を否定したい自分に気がついた。
風化していく想いから、私は目を背けるのを止めた。
「仲直り」
そう言って、私は微笑み右手を差し出す。
「これで元通り――は無理だけど、でもこのままじゃ淋しいから」
相場は照れくさそうにでもしっかり私の手を握り返す。
完全に恋は終わり、また新たに私たちは繋がりを持つ。きっとしぶとく続く腐れ縁となるだろう。
「なんか、兄妹喧嘩の後だよな、この感じ」
相場が照れくさそうに言う。
「あ、そんな感じ。お姉ちゃんの私が譲歩した、みたいな?」
「うっせ、俺が兄貴だ」
「バーカ、ロリコン野郎」
いつもの調子で私たちは言い合った。
今日最大のイベント告白タイム。
青葉と相場を二人きりにする。
そのチャンスは、無理やり作った。私はトイレ、浩介さんは煙草、間中は――とにかく強引に抜け出した。
荷物番を頼んで、そのまま三人は少し離れたクラゲの水槽の前。
のんきなクラゲ達は水の中をただゆらゆら目的無く浮かんでいる。
苦労なんてした事無いんだろうな。
「さっきトイレに行っといて、余りに理由がわざとらしくないか?」
クラゲをぼんやり眺めていると、暇だったのか間中がそう声をかけてきた。
責める様な物言いだったので、思わず私はむっとする。
「うっさい、それよりあんたの抜け出した理由のほうがわかんない」
「自分自身わからん」
「……浩介さんも、煙草吸わないでしょ」
つい浩介さんにまで怒りの矛先をぶつけてしまう。
「誰も知らないから良いだろ」
特に気分を害した風でもなく、そう言って浩介さんは受け流す。
「でも、こんな事で上手く行くのか? 青葉が告白できるとは限ら無いと思うのだが」
「いい。あの子が出来なくても相場がする」
その問いこそ、愚問そのもの。私は思わず溜息をつく。
「どういう事だよ?」
「両思いなのよ。お互いに」
――振られた時相場は青葉が好きだと告白し、青葉も相場が好きだった。
好きになった理由は部外者の私にはわからない。ただ、わかるのはきっかけが必要だったと言う事。
「……要らん、世話だったのか」
「かもね。実際私のおせっかい、と言うか踏ん切り付けにやった事だし」
何に対しての踏ん切りか、はあえて省いた。
「……そうか」
「そう」
しばらくの沈黙。
と思った矢先、間中は突然泣き出した。
「え? ちょ、どうした!?」
いきなりの出来事に私は狼狽してしまう。
「うるさい、気にするな。泣きたいだけだ」
答えになっていなかったが、ふと、一つの考えが浮かぶ。
「まさか――好き、だったの。青葉の事?」
頷く間中。
「え、だって、三次元に興味は無いって――」
「そんなもの、嘘だよ。好きだよ、……でも、僕みたいなのと、付き合わないほうが――」
最後はただの嗚咽に変わっていた。涙で濡らして、ただでさえ近寄りがたい顔が余計に歪んで、でも、気持ち悪いとは思わなかった。
否。気持ち悪いと思うことは思ったけど、それより別の気持ちが湧いていた。
思い出す。空気がぶち壊しだったけれど、確かに間中は助け舟を出していた。――様に見えなくも無い。
背中を擦ってやる。ちょっと汗で湿っていたけれど、でも我慢した。
お前は良い奴だ、間中。少し見直したよ。
友達になっても良いかな、と少しだけ思えた。
泣き止むまで私は付き添い、いつの間にか居なくなっていた浩介さんは買ってきた炭酸水とティッシュを渡す。
間中が泣き止み、戻って帰ってその日は終わった。どうなったかはわからない。
でも、幸せそうな青葉の顔が全てを物語っているのだろう。
私の初恋は完全に終わりを告げた。