どうでもいいこと  

 いい人かもと思うのはどんな時だろう?
 まず思い浮かべるのはギャップがある時。
 例えば、学校一番の不良が、雨の中捨てられた子猫を拾っているとか、そして必死で貰い主を探している、とか。
 べただけど、まあそんなところだろうか。
 
 で、話は今現在の状態に向かう訳ですが、夜中にチャイムがなったと思っていたら、子猫を抱えた怪しい男が――まあ、クラスメイトの霧雨君なんだけど。
 降りしきる雨の中、腕の中に、大事そうに抱えたふわふわのちっこいの。
 何処をどう見ても猫である。
 ちっこい。まだ、生まれてちょっとしか経っていない子猫。
「飼えるか?」
 その一言は、縋る様な必死さはなく、面倒くさそうに、ちょっとうんざりした風で。
 彼の表情から私が希望の返事をいう可能性に期待してない様子が見て取れた。
「何件回ったの?」
 だから代わりにそう聞いてみる。
 その問いにわかんねーとの返事。
 実際わからないのだろう。
 何件も回って。そして全てに断られた。
 飼いたい気持ちは結構あって。残念ながら、我が家では色々問題があって飼えない。
 ――でも、長い時間回ったであろうねぎらいぐらいはせねばなるまい。
 そう思えたのは、せめてもの罪滅ぼしと言うか、なんと言うか、ちょっとは手助けしたい気持ちがあるわけで。
「寒いでしょ、ミルクでも飲ませてあげる。猫すけにね」
「俺の分は」
「もち、あるよー」
 そう言って招き入れる。
 それがまずかった。
 最初は本当に猫すけにミルクをあげるだけのつもりだった。
 でも、ミルクを飲んでいる猫すけを見るうちに、なんとかしてあげねばっ、と言うよくわからない衝動に駆られ、結局霧雨君と一緒に飼い主探しに奔走した。
 疲れた。途方も無い時間と、努力と、忍耐の末(といっても、片っ端から知り合いに頼んで周るだけなのだけど)
 なんやかんや、とやかくあって。
 その後、猫すけは私の隣のうちに引き取られ、(よりにもよって一番最後に訪ねてしまった――疲れた)私もちょくちょく世話をするため半分飼い主になってしまったわけなのだけれど。
 その日から、霧雨君はよくわからない不良ぶっている男の子から、たわいのない話をするぐらいの知り合いにランクが上がったのだった。
 猫好きに悪い人は――あんまりいないのだっ。
 


「あんたって律儀な子よね」
 これは今朝隣の席の朝霧さんに言われた言葉。
 今朝、小銭の入った財布を職員室に届けた時に言われた。
 その時の彼女の目は、同級生を見るというより小さいわが子をみ微笑ましく見守ると言った感じで。
 ――確かに、ちびすけの私と、背が高い朝霧さんと並んで歩いていても同い年には見えないだろうけど。
 でも、ちょっと複雑な気持ちではある。
 仲良し姉妹――いつの間にかそんなあだ名を付けられた。
 ちなみに、私は妹の方である。だれも、間違わないだろうけど。
 休み時間の折、その時のことを思い出したのか朝霧さんは言った。
「大した額じゃなかったんでしょ? 本人も気にしてないわよ」
 そうだろうか。
 例えば、あの財布に大切な思い出が詰まっていたり――そう力説するとまた、微笑ましい目で見られた。
「うん、うん、そうだね。それを本気で思って言ってるあんたが可愛いよ」
 そう言って、頭を撫でられた。
「……くすぐったい」
「でも嬉しいっしょ?」
 ……まあ、うん、嬉しいけどさ。
 少し間を空けて私が頷くと爆笑された。
「あー、あんたみたいな正直者になりたいわ」
 そう言って、まだ可笑しいのか肩を震わせる朝霧さん。
 ほめられてるのかな?
 怪しいような気がするけれど、ちょっとこそばゆい幸せな気持ちになる。もし私に尻尾があったらさぞかし激しい動きをしていることであろう。
 ぱたぱたぱたっ!
「嘘ついたことないんだろーな、あんたみたいな子は」
 その言葉を聴いて、ちょっとドキッとする。
「嘘ぐらい、ついたことあるよ」
 でも、同様を悟られぬよう、私は言う。幸い、朝霧さんは気づいてない。
「あー、お菓子を食べたのに食べてないとか、おねしょしてないとか、でしょ」
「もう、そんなんじゃないよー!」
 私はむっとして言った。きっと、そんな嘘もあったのだろうけれど、今は高校生だ。さすがにしない。
 からかわれているのがわかって、羞恥心で顔が熱くなる。おかげで、心に出来た動揺をうまく隠すことが出来た。

「あいつにも、見習わせたいわー」
 そう言って、朝霧さんは一番前の方の机に突っ伏して眠っている霧雨君の方を見る。
 疲れているのか、微動だにせず熟睡している。
「さっき怒られたばっかりなのに幸せそうに寝てるわね」
「また、捨て猫の飼い主さんを探してて疲れてるんだよ」
「あいつの虚言癖を信じるの八重ちゃんくらいよ。――今日だって朝遅れてきた理由なんだっけ。具合悪そうなお婆ちゃんを病院に送っていたら遅れた? そんな訳無いじゃん」
「もしかしたら本当のことかも」
「一回ならね。でも、もう何十回ほぼ毎日同じような言い訳してるし。何? そんなにあいつは町の皆を助けるヒーローな訳? あの金髪で?」
 そういう霧雨君の髪の毛は確かに金色だ。ハーフさんでもない純粋な日本人のはずだから染めているのだろう。
「確かに、そう言われると、弁解できないけど」
「しなくていいのよ、あんなうそつき男」
 朝霧さんは曲がったことが大嫌いだ。
 持ち前の正義感ゆえか、風紀委には所属する彼女は風紀委員全員の推薦で今年風紀委員長に指名された。
 そのためか、校則に厳しく、うそも大嫌い。
 今のところ怒られたことは私は無いけれど、霧雨君はしょっちゅう怒鳴られては、何故か楽しそうに笑っている。
「でも、悪い人じゃなさそうだよ?」
「まあ、極悪人では無いわよ。でもあの嘘をつく態度が嫌い」
 朝霧さん、私ね、もっと大きな嘘をついてるの。
 私は心の中で呟く。
 けれど、言うことはない。だって、それを言ったらきっと嫌われてしまうから。
 それが、とっても怖くて、恐ろしかった。

「今日カラオケ一緒に行かない?」
 帰り道、いつものように朝霧さんと帰っていたらそう言われた。
「――アルバイトの日だから」
 基本日曜日以外は掛け持ちのバイトで埋めている。
「あ、そっか。残念。でも、ちょっと以外だよね。鷽外さんがアルバイトしてるのって」
「子供と言いたいの」
「違うよー。そんなにお金使う方には見えないしさ」
 その言葉に、私はあらかじめ用意していた言葉で返す。
「――遊ぶお金は自分で稼ぎなさいって我が家の方針だから」
 そんなの嘘だけど。
「そうだった。厳しい両親だよね」
 きっと朝霧さんは厳格な親の姿を想像しているのだろう。同情したように微笑んでいる。
「でも、こうして学校に通わせてもらってるんだから幸せだよ」
 これは本当。朝霧さんと一緒に学校で過ごすのは本当に楽しい。幸せだ。
「それに、お父さんやさしいし」
 これも本当。
「でた、お父さん自慢。本当好きなんだね」
「えへへ」
 ちょっと照れくさい。
「またあわせてよ」
「実は今出張中なの」
 これは嘘。家の中に居る。
「寂しくない?」
「うん。だって、お父さん仕事がんばってるから」
 本当は私が、なんだけど。
「なんていい子なんだ、あんたは」
 その言葉に私はうつむく。照れていると思ったのか、頭をぐりぐりなでられる。
 その温かい感触のおかげでなんとか顔を笑顔に装えた。――そんないい子じゃないよ、嘘ついてるもん。
「むー、子ども扱いしないでよ」
 これも嘘。本当はもっと頭をなでてもらいたい。ぎゅっと抱きしめてもらいたい。そんなことしてくれるの、朝霧さんだけだから。
「嘘だー!」
 そう言って、ぎゅっと抱きしめられる。恥ずかしくて、形だけ抵抗して見せるけど、本当は嬉しくてたまらない。
 ずっと、こうして朝霧さんと一緒にいたい。
 けれど、もう二人が分かれなくてはいけない別れ道まで付いてしまっていた。
「じゃあ、また明日!」
 そう言って、手を振る朝霧さん。
「……うん、また明日」
 私はそう言って微笑んだ。本当は離れたくなかったけれど精一杯微笑んで見せた。

 重くなった足で私は歩く。
 やがてついた我が築云十年のアパート。枯れた植木鉢、ひび割れた灰色の壁、一瞬廃墟を連想させてしまう場所が私の住処。
 中からテレビの音がした。どうやら二人とも帰って来ているようだ。
 ――いつもお父さんは居るけれど。
「……ただいま」
 玄関の扉を開けて言ってみるけれど、返事は無い。
 恐る恐る6畳の畳部屋の中を覗き込んでみると、お母さんとお父さんが寝ていた。
 テレビはつけっぱなしで、丸いテーブルの上には何本も空いた缶ビールが置いてあった。
「今日は、勝ったんだ」
 競馬か、それとも宝くじか知らないけれど。
 風邪を引くとまずいので、毛布を二人にかけてあげる。
 寝ている二人の顔はあどけない子供のようで、微笑ましい気分になる。
 冷蔵庫を見ると、買い置きしていたビールがすっからかん。
 買い足さないといけない。
 やがて私が着替えている音で気づいたのか敏感なお母さんが起きた。
「帰ってきてたの?」
「うん、今さっき」
「そっかー。おかえりー」
 そう言って、にへら、と笑うお母さん。
 そして、思い出したかのように慌ててパソコンに向き直る。
「あ、イベントの時間過ぎてる!?」
「ありゃ、残念」
「うーん、しまった。まあ、大したアイテムなさそうだしいいけど」
 そう言ったきりお母さんは黙ってしまった。
 部屋の中にマウスのクリック音が響く。
 こうなると、彼女は帰ってこない。
 話しかければ返事もお話もしてくれる。でも、それはお母さんを邪魔してしまうので、出来るだけしたくない。
 ただ、出る前に行ってきます、と声をかけた。
 いってらー。
 間延びした声でお母さんがパソコンのディスプレに向き合いながらひらひら手を振った。
 それだけで、ちょっと嬉しくなって、思わず私は微笑んでしまう。
 少し活力が回復した私は駆け足気味にバイトに出発した。

 お母さんと出遭ったのは二年前。
 彼女と私は血がつながっていない。
 前のお母さんが居なくなってもう大分経った頃。当時大学生だった彼女は私の新しいお母さんとなった。
 私にとってかけがえのない家族である。

 今日はコンビニエンスストアのバイトの日。
 私が掛け持ちしているバイトの中でも絶対止めたくない仕事の一つである。
「いらっしゃいませー」
 にこにこ笑顔で接客をする。店長さんもそれを見て満足そうに商品を棚に並べている。
「いつも、笑顔が絶えなくていいね、好きなんだねこの仕事」
「はい、大好きなんです」
 私は言った、嘘ではない。なにしろ、お弁当が貰えるのだ。その他売れ残りの品ももらえる。特にパン類がありがたい。
 今のお母さんがアルバイトで稼いだお金を生活費として入れてくれるおかげで、生活は大分楽にはなっているけれど、まだまだ家計は苦しいのだ。
「真面目に仕事するし、かわいいし。将来うちに就職しない?」
 若干下心が入っている気がするが、魅力的な提案だ。
「正社員ってありましたっけ?」
 半分本気で聞いてみる。
「……君が高校を卒業する頃には、きっと」
「がんばってくださいねー」
 そうなることを祈りたい。
 やがて時間が過ぎていき、交代の時間がやってくる。
 そろそろ、上がりかな、と思う頃一人のお客さんがやって来た。
 塾の帰りなのか、制服姿の女の子。私が通っていた中学校のものだ。
 その顔立ちに見覚えがあるような気がしたけれど、よく思い出せない。
 奥の棚の方をうろうろしていて、何も買う様子は無い。こちらを時々伺うように目線を向けてくる。
 ――なんか怪しい。
 私はそう思ったが、ちょうど他のお客さんが会計にやってきたので意識がそれる。
 しばらくして、目をやるとその子は今まさに入り口から出ようとしていた。
 顔が青ざめていて、私は声をかけようか悩む。
 けれど、証拠も何も無い。
 悩んでいるうちに彼女は出て行ってしまった。
 ちょうど店長さんは喫煙休憩で、交代の子も着替え中。
 もし、仮に彼女が何かをしていても、追いかけて店をあけるわけには行かない。
 どうしようか、悩んでいる間に予想外の事が起きた。
 先ほどの女子中学生が再び入ってきたのだった。
 そして手には、家の商品であろうカップ麺。
 ごめんなさい!
 そう言って彼女はそれを私に差し出し、私が受け取ったと同時に逃げるように走り去って行った。

 やがて店長が戻ってくる。
 事情を話すと、店長は何故か笑って言った。
「うちは何も盗られてないから、何も無かったことにしてあげなさい」
「いいんですか?」
「いいの、いいの。どうせ、それ人気ないし後ちょっとで処分する奴だったから」
 そして、その話はそれでおしまい。
 その商品をもとの棚にもどした店長のしたたかさ? にはちょっと驚いたけど。

「なんていうか、盗まなかったら良かったのに」
「うん、でも、返しに来てくれたからいいと思うよ」
「駄目。悪い事は悪いの。特に、逃げたのが最悪ね」
「そうなの?」
「自分がしたことの責任を取らないと。ちゃんと謝らなきゃ」
「謝ってたよ?」
「誠意が無い。そんなの、謝罪でもなんでもないわよ」
「そうかなぁ」
 確かに悪いことはしたけれど、改心してくれたのだから、それ以上言うことないと思うけど。
 でも、朝霧さんは納得していないようだった。
「そうなの。私の妹だって、生意気だけど謝る時はきちんと謝るわよ」
「妹さんいたんだ」
「あ、言ってなかったけ? ――はい、写真」
 そう言って携帯の画面を見せる朝霧さん。
 そこには仏頂面の女の子――昨日の女の子が写っていた。

「すいませんでした!」
 その日の放課後、朝霧さんに連れられて、彼女の妹さんが謝罪に来た。
 私も、事情を店長に話すため着いて来た。
「いいって。途中で引き返してきてくれたんだし」
 店長さんは笑ってそういうが、朝霧さんの表情は硬いままだ。
「ほら、あなたもちゃんと謝って!」
 そう言われて、青ざめた顔で朝霧さんの妹さんはごめんなさい、と小さい声で謝った。
 一応はそれで終わり。
 店長さんは何も無かったということで、学校には連絡しないと言った。
 帰り道、朝霧さんは泣きそうな顔で歩いていた。
「なんで、あんな馬鹿なことをしたの」
「……なんとなく」
「なんとなくって――お姉ちゃん悲しいよ」
 そう言う朝霧さんの目には涙があった。
「恥ずかしくて?」
「っ、そんなんじゃない!」
 そう言って、朝霧さんは手を上げた。
 ――でも、その手を朝霧さんは下げた。
 妹さんが怯えたような顔をしていたからと思う。
 小さい声で何回もごめんなさいと呟いていたから。
 かわりに自分の唇を強くかむ。若干血がにじんでいた。
「何か悩みがあるなら言って。相談ぐらいいくらでも受けてあげるから」
 努めて平静を努めようとしたのだろう、朝霧さんは淡々とした調子で言った。
「別に、何も」
「そんなこと――」
「いい子ぶらないでよ! 余計私が惨めになるだけじゃん。私、お姉ちゃんみたいに良い子になれない!」
 顔が青ざめたままだけれど、妹さんは怒ったように叫んだ。
 ぎすぎすしたムードに、私は戸惑う。
 けれど、どうにも口を挟めそうな空気ではない。
「先帰ってる」
 妹さんはそう言って、足早に去っていった。
「ちょっと、どこか寄って休まない? 気分変えようよ」
 私はそう言って、呆然と立っていた朝霧さんを引っ張っていった。
「……ごめんね」
「気にしないで。大丈夫?……」
「うん、あんがと」
 二人でしばらく注文したバニラシェークをちゅうちゅう。
 久しぶりの外食だけれど、どうにも楽しくない。
「一つ、聞いて良い?」
「どうぞ」
「お母さんか、お父さん、厳しいの?」
「うん、母がね。――ちっちゃい頃は良く叩かれた。でも、なんで?」
「妹さんが怯えてたから」
 私も、同じように怯えていた記憶があったから。
 今のお母さんは叩かないし、ヒステリックになったりしない。(むしろ、ものすごくマイペースで、いつもニコニコしてる。たとえ、お父さんが、パチンコで生活費を使い切っても、私が大事なパソコンにコーヒーをかけてしまっても、にこにこ、へらへら笑って済ませてくれる。――パソコンの時は影でこっそり号泣してたけど……)
 でも、本当のお母さんは違った。何か気に入らないことがあったら。すぐ手が、足が、飛んできた。
 服を汚した。おねしょした。泣いた。煩い。何かと理由をつけては、私を殴ってぶって。
 怖かった。
 お母さんがポーズを取るだけで、足がすくんで、怖かった。
「やっぱりわかる?」
 苦々しそうに、まるで恥じるように朝霧さんは言った。
「元々学校の先生だったからなのか、行儀が悪いとか、成績が悪いとかよく怒られた。父は出張が多くて知らないだろうけど――叩かれたり、蹴られたり、踏まれたりした」
「今は?」
「私も妹も、良い子になりましたので。お母様は満足なのじゃ」
 ふざける風にそう言った顔は苦笑いを浮べていたけれど、悲しそうだった。
「と言うのもあるんだろうけど、お父さんが帰ってきたって言うのが大きいのかも」
 私の場合は、お父さんの目の前でも殴られてたのだけれど。――ちょっと羨ましいかもしれない。そう思ってしまう自分が居た。
「無理に優等生を演じるのが辛かったのかな? 私は案外そういうこと好きだけど、妹には合わなかったみたいだから。でも、何でこんなことをしたのかな。こんなことしても、何にもなんないのに」
 きっと、朝霧さんは本当にわからないのだろう。
 それはきっと本人にしかわからない。
「そっか」
「ごめんね、変なところ見せちゃって」
「ううん、全く気にしないでいいよ」
 ――むしろほっとした。朝霧さんのところも影があって。
 そう思う自分が嫌になったけど。
「私のとこも、同じようなところあるし」
 だから、私は告白した。ほんのちょっとだけ。
「あ、やっぱり厳しいんだ?」
「昔は、だけど、今はあんまりだけど、ちょっとひどかったかな」
「……そっか」
 曖昧な表現。でも、朝霧さんは何も聞かなかったし、私も何も言わなかった。
「妹さんと話ししてる?」
 私は、話題を変えた。
「あんまり。母上様がべったり張り付くもので」
「べったり?」
「なんか、私が良い子にしているのがよほど嬉しいみたいでさ。いつも纏わりついてるの」
 その言葉にはどこかうんざりしているような響きがあった。
「私としては、放っておいてほしいんだけど」
 私は考える。
 いつも、母親は朝霧さんにべったり。
 きっと、妹さんは無視されるか、悪ければ比較の対象になる。
 そんなことがなくても、姉だけか可愛がられているのをみて、どう思うだろうか。

 あの子は――なのに。
 こんなことも出来ないの?
 ちょっと前、前の母に言われていた言葉を思い出す。
 近所の子と比較されて、何か出来なければ、非難されて。
 母親に甘えられる、構ってもらえる子がものすごく羨ましかった。憎らしかった。
 そして、寂しかった。悲しかった。
 朝霧さんの妹さんが同じ心境かどうかはわからないけれど、でも、きっと昔の自分と同じような気がした。

「ぎゅっとしてあげて」
 口から出たのはそんな言葉。言ってから、気づいた。私が変った、笑えるようになったきっかけ。
「それで喜ぶのは八重ちゃんぐらいだよ」
 微笑ましそうに笑いつつも、朝霧さんは暗にそんなことしても何にも変んないわよ。そう顔に浮べていた。
「いいから」
 私はちょっと語気を強めていった。
 嬉しかった。ぶたれる以外、叩かれる以外差し出された手の使い道があるなんて知らなかった。
 触られても、痛くないこと事があるって知った。
 温かくて、安心できるって知った。
 それを教えてくれたのは――全部、朝霧さんのおかげなんだよ?
「私は、嬉しかった」
 おかげで、今笑っていられるよ?
 前を向いて、生きていられるよ?
 言葉にはしなかった。出来なかった。
 気恥ずかしくて、でも、伝えなくちゃと思った。
 私の真剣な目をみて、朝霧さんはちょっと驚いた顔をした。
「一人は辛いよ」
 家に誰かが居ても、見向きもされない恐怖。それは、身をもって知っている。
 それはきっと――朝霧さんも。
「まあ、いやがられるだろうけど、やってみる。――思えば避けてたかも。母が私と比べてるからかな、いつの間にか妹を見下してたとこあったのかも」
 やな奴、そう言って朝霧さんは自分の頬を軽くぺちぺちと叩く。
「うん、ありがと、八重ちゃん」
 そう言った朝霧さんはいつものように優しい笑みを浮べていた。

 それから1週間何事も無く、平穏な時が過ぎた。
 お父さんは運が回ってきたのか、勝ち続きで上機嫌。
 就職しろーコールにも笑って誤魔化す余裕を取り戻すほど。
「早く、お仕事見つけて欲しいんだけど……」
 レンタルビデオ店でバイト中、私は呟く。ちょうど正午過ぎで、お客さんは皆無。
 暇になってきて私はレジに置いてある椅子に座ってあくびを漏らす。
 そういうときに限ってお客様はやってくる。慌てて笑顔を取り繕う。
 そして固まる。
 朝霧さんの妹さんだった。
「あ、コンビニの人」
 先に言葉を発したのは妹さんの方だった。
「ここでもバイトしてるんですね」
「まあ、生活が苦しいもので」
 予想外の遭遇だったので、うっかり本当のことを言ってしまう。
「お姉ちゃんはお小遣いのためにって言ってましたけど」
「……ああ、うん、ソーデスヨ」
「片言になってますよ、目を見ていってください」
「ごめん、嘘つきました。朝霧さんには黙ってて」
「別にいいですけど。何でですか? 別に恥ずかしいことじゃないのに」
 私にとってはね。
 でも、それは言わない。
「見栄はっちゃって、引っ込みがつかなくなっちゃって……」
「底が低い見栄ですね。哀れと言うか、なんと言うか」
「なんとでも、言ってください。妹さん可笑しいのはわかってるんで」
「妹じゃないです。伊代って名前があります」
「伊代ちゃんって言うんですね」
「はい」
 それからしばらく妹さん改め伊代ちゃんは店内をうろうろ。
 私がジーとみてると、盗みませんよ、と苦笑い。
「これ、お願いします」
 差し出されたのは、ホラー映画。
「怖いの好きなんだ」 
「ええ、まあ」
 そう言って、何故か悪戯っぽく微笑んだ。
「姉は大嫌いですけど」
「ああ、確かに。言ってたような」
「ありがとうございます」
「え?」
「あなたでしょ、お姉ちゃんに何か言ったの。おかげで、何故か頭なでられたり、抱きつかれたり――ものすっごくうざくなりました」
「ははは」
「でも、おかげで、言いたいこともいえるようになったし、感謝はしてます。だから、ありがとうございます」
「……どうも」
 何だか照れくさい。
「そう言えば、あの日、何でコンビニに引き返して来たの?」
「――外に出てすぐに言われたんです。後悔したくなけりゃ、今すぐ戻って謝れって男の人に」
「男の人?」
「あなたと同じ学校の制服を来た金髪の人」
「それで返したの?」
「いいえ。はじめは私踏ん切りつかなくてでも、そのひと、たいしたことの無いように言うんですよ。今躊躇ってるのは、自分のせいで、実はそんなに大したこと無いって。だから私もそんな気が気がして――だから来ました」

 私の学校に金髪の生徒は全学年の中で一人しか居ない。
 そのことに思い至って、私は少し前のことをなぜか思い返していた。
 大したこと無い。あのとき、彼はそう言いたかったんじゃないだろうか?

 捨て猫を拾って、私の所に訪ねてきて少し前のこと。
 その日。霧雨君は何故か屋上に居た。
「ん、どした、何か用?」
「えっと――用って程でもないけど、何してたの?」
 その時、私はなんとなくもう一度霧雨君と話をしたくて機会を伺っていた。
 ちょうど、霧雨君が屋上に上っていくのが見えて、しばらく迷った後わたしは彼を追った。
 霧雨君の足元には何故かカッターナイフと血がぽつぽつ。
「リストカットしてる奴がいてさ、そいつから取り上げた」
「え?」
「馬鹿だよな、こんなことしても何にもなんないのにさー」
「そうなのかな?」
「何、あんたわかる口?」
「わからないけど、わかりたいかな」
「変な奴」
「まあ、うん、そうかも」
「認めるなよな……」
「――ねえ、その子ってどんな感じなの」
「どんなって?」
「その、他の人と、こういうところが違う、とか」
「たすけてくれオーラが出てた」
「え?」
「ああいう自棄にはしった奴の顔は結構わかり易いもんよ。笑顔で人を刺す人間と比べたらな」
「そう、なんだ」
「それを聞くためだけにきたんじゃないだろ?
「お父さんがね、――どうしたら、仕事就いてくれるかなぁって」
「は?」
「いい人なんだよ。お酒飲むとタガが外れることあるけど、でも、優しいの」
「はあ」
「私に暴力を振るうお母さんから守ってくれて、好きなのに別れて――信頼してた人に裏切られて、ミスの責任負わされて仕事首になって人間不信気味になってるけど」
 現在はネットゲームとネット環境でのギャンブルにはまる毎日。
「で?」
「あとは、働いてくれたらいいの。バイトでも、何でもいいの。そうしたら、父さんは朝霧さんに嫌われない」
 私は父が好きだった。優しい、自慢したい父だった。でも――今の父は誰にでも馬鹿にされる。それを思い知っている。
 私の事を同情する人は居ても、ゲームとギャンブルにはまり、家に閉じこもる父に向けられる目は冷たかった。
 だから隠した。朝霧さんにも。彼女に父を軽蔑して欲しくなかった。
 今のお母さんはお父さんがネットで知り合った数少ない理解者だ。
 重度のネット依存のゲーマーで、でも、優しい人だ。

「なんで、それを俺に話す?」
「えっと――なんとなく」
「なんとなくって」
「――実は、最近あなたを監視してました」
 といっても、下校時にちょこっと着いていっただけだけど。
「は?」
「いろんな人があなたに助けられてる」
「例えば?」
「まず迷い犬でしょ、産気づいた妊婦さんでしょ、不良に絡まれてたサラリーマンそれに――」
「もういい」
「あなた、良い人だから。助けてもらえるかな、と」
「無理」
「え?」
「助けて欲しそうじゃない」
「私は――」
「なんとなくわかる。お前、自分をかわいそうな奴だって内心思ってるだろ」
「まあ、うん」
「でも、実はそれほど、不幸でもないとも思ってる」
「え?」
「だって、いつも楽しそうにしてるし、それに、本当にかわいそうな奴は疲れた顔をしてる、対してお前は生き生きとしてる」
「そうかな?」
「ああ。不幸自慢のつもりで、それ、幸せ自慢になってるぞ?」
「そんなこと――」
「お前は実は自分の力で解決できる」
「え?」
「親父さんが働く云々は実はどうでも良い。お前は朝霧がお前の父を嫌わないかどうかそれが心配なんだろ」
「うん」
 言われてみればそうである。別に生活に文句は無い。働くのは慣れたし、学校は楽しいし。
 ただ、後一つだけ。
 朝霧さんに私の家族を受け入れて欲しい。ようはそれだけなのだ。
「じゃ,行くか」
「え? え、ちょっと――」
 私は霧雨君に手を引っ張られ、屋上から連れ出される。
 ずるずる。
 突然の事に、目を白黒させながら、なされるがまま。
 着いた場所は教室。朝霧さんの目の前。
「おい朝霧」
 霧雨君はぶっきらぼうに言う。
「なによ」
 言いながら、手を繋がれてる、私を見て、顔色が変る。
「ちょっと、八重ちゃんに何してんのよ!」
「あ、大丈夫だか――」
 言い終わる前に霧雨君の胸倉に朝霧さんの腕が伸びる。
「なんにも。こいつが話があるってさ」
 つかみ掛かられても、平静を保ってそういう霧雨君。
「話?」
 きょとん、と不思議そうに私を見る朝霧さん。
「え?」
 私もびっくり。
「ほら、言えよ」
 そう言ってせっつく霧雨君。
 えっと――。
 教室のクラスメイトが全員が注目している。
「い、良い天気だなぁって――えへへ?」
 そういうのが精一杯だった。
 結局、肝心の事は言えずじまいで、朝霧さんの霧雨君の印象を悪くしただけ。

「本当に何にもされてない?」
「う、うん大丈夫」
 それで終わり。

 今思うと、このとき言えば、良かったのじゃないか。
 私は馬鹿である。大馬鹿者だ。

 思えば、お母さんの時もそうだった。
 パソコンに没頭されるのが、寂しくて泣いて訴えたら簡単に私の悩みは霧散した。
「ごめんね、無愛想で。私、現実の生活は2番目? みたいなところがあるから」
 そう言ったお母さんは、私と過ごす時間を作ってくれるようになった。少ない時間かもしれない。
 それでも私のことも好いてくれていると感じる。きっとネットと父の次に。
 彼女なりに、こっち側に時間を作ってくれて、私と向き合ってくれる。
 ゲームの話や、アニメの話、付いていけないことも多いけど。
 それでも、精一杯私達と向き合ってくれている。
 私が学校であったことも、たわいない話題も、いつも相槌を打ってくれる。
 私の料理をおいしいと言って食べてくれる。
 最初、家に居る時はパソコンの前でじーっと座りっぱなしの彼女を私はどこか怖いと感じていた。
 前のお母さんのように、どこか壊れている人のように思ったのだ。
 実際普通の人達と比べていると、可笑しいのかもしれない。
 家ではずっとパソコンの前で、他の事には全く頓着しない。
 服は、平気で連日着まわすし、(私がお願いして、二日に1度は着替えてもらっている)、お風呂だって、私が言わないと入らない。
 仕事で稼いだお給料も、食べていくだけの最低限以外は全部パソコン関係につぎ込む。
 人付き合いも皆無。
 パソコンの前だけが、彼女の住む世界なのだ。
 寂しかったけれど、付き合っていくうちに、それが、彼女にとっての常識なのだと理解するうちに、怖くはなくなった。
 それに、私が寂しそうにしているのに気づいてか、必ず帰ってきたときには話しかけてくれるようになったし、休日は一緒にご飯を食べてくれるようになった。(それまでは、ずっとパソコンの前で食べていた)
 
 それがわかって安心した。納得できた。理解できた。受け入れられた。
 でも、そのきっかけってものすごく簡単な癖に、とても難しいもののように感じるのだ。

 そのことに気付いて、私は一つの事を決めた。

 学校の昼休み。
 霧雨くんと――朝霧さん。
 二人の目の前で、私は告白した。
 本当は朝霧さんだけでよかったのだけれど、勇気が無くて、霧雨君についてきてもらったのだ。
 謝りながら、告げる私の嘘を、屋上に連れてこられた二人は、何故か苦笑しながら聞いていた。
「知ってた」
 朝霧さんは言った。とっくの昔に知ってるよと。
「え?」
「なんだ、そんなことかー。良かった。変なことに巻き込まれてるのかと思ってた」
「あの、これは」
「知ってたわよ」
「え?」
「霧雨に連れてこられたときあったでしょ、あのあとこいつに問い詰めたの。――あっさり、白状したわこいつ」
 何故か、疎ましげに霧雨君を睨む朝霧さん。
「私に、お父さんが嫌われたくないんだろうなってのも、わかった。だから黙ってたんでしょ」
 だから、知らないふりをした。私が告白するまで。
「でも、本当にお父さんが好きだってのは良く聞いてるから、悪い人じゃないのは知ってる」
 ただ、と告げた。
「働いてもらうように、手伝わせてもらう。友達だもん、それくらいさせて」
 前は急げとというわけで――朝霧さんは私を引っ張って行った。

 しばらく後、
 霧雨は静かになった屋上であくびをした。
 彼にとっては、こんなこと、日常であり、けれど、まあ悪い気分のものでも無かった。
 だから、いつものようにゆっくりと昼寝を楽しんだ。


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