●● うたかた ●●
今日は妙に静かだった。
雪が降っているせいかもしれない。
普段はそれなりに人とすれ違うはずなのに、記憶にあるのは行きかう車と吹雪く雪景色。
人っ子一人居なかった。
帰り道、冷たくて、寒くて。
少しブルーな気分になりながら、僕は一人寂しく家路に着いた。
家に入って、ガスコンロに火をつけて、温かいココアを飲んで一息つくと、体の心から寒さに震えていたことに気付く。
そんな日だからなのかもしれない。
やがて遅れて帰ってきた夕実は何だか泣きな顔をしていた。
――いや、違う、今日だからだ。
僕は一瞬で思い出す。そして、その事を少しの間でも忘れていたことを後悔した。
無表情に、ただいまと呟く夕実は、いつもの活発な元気一杯の輝きはなく、まるで迷子になった子供みたいだった。
おかえり、と僕が言った時、いつものように微笑むのだけれど、ちょっと頼りない。
なんていうか、無理してるように見えた。
いつもは、夕実のおしゃべりに相槌を打ちながら、にぎやかに過ごすのだけれど、今日はお互い無言で。
淡々と最低限の行為を済ませる。
ご飯を食べて、お風呂に入って。
黙っているだけ。それだけで、少し悲しい気持ちになってくる。
気付けば寝るちょっと前。
リビングに置かれたソファーに座りながら、僕はぼんやり外をみた。
降り積もる雪は、辺りを覆いつくし、静寂の世界へと変えていく。
僅かに、聞こえるのは壁一枚隔てた夕実の着替える物音とテレビのどうでもいい雑談ぐらい。
なんて声をかけよう。
慰める?
でも、どうやって?
悩むうちに着替え終わった夕実がやってきた。
「おまたせ」
そう言って、ぼっふと勢いよく僕の隣に座り込む。
「大丈夫?」
「ん、何が」
「元気ないよ」
その一言に、彼女は苦笑い。
「あ、やっぱり?」
やがて彼女は無言で僕に寄りかかってきた。
「やっぱ、ちょっとね――辛れぇのですよ」
「うん」
お風呂上りの温かい肌の温もりと、少し甘い髪の匂い。
なんとなく、頭を撫でると、むふっっとなぜか笑われた。
「何故撫でるのじゃ」
「……なんとなく」
「じゃあ、そのままなんとなく撫でといて」
しばらく無言でそのまま。夕実の頭を撫でる僕と、じーっとどこか遠くをな眺める彼女。
世界の音が全て止ったみたいだった。
かしましいテレビだけが浮いたように無遠慮に音を響かせる。
「泣いてもいい?」
やがて、彼女はそう漏らした。
「いいよ」
僕が、そう言うと、あんがと、と小さい声で彼女は呟いた。
若干湿った啜り声が聞こえた。
僕は頭を撫でることに専念する。
なんだか、普段とあべこべで変な感じ。
いつも、誰かを叱咤激励し、元気に動き回る彼女。
誰かに、元気を分け与える人。
じゃあ、誰が夕実に元気を分け与えたら良い?
――僕か。
何も出来ない自分が恨めしい。何にもも無い自分が情けない。
今の僕には、肩を小さく震わせる彼女のそばにいることしか出来ない。
それで十分よ。夕実はきっとそう言ってくれるのだろうけど。
その日生まれて初めて僕は仕事をさぼった。
何故そんな事をしたのか今思い返してもよくわからない。
なんとなく、だ。
気持ちがなんとなく下向きで、身体が何故か気だるくて、そして眠い。
朝起きて、休もうと決めた。
一応上司に風邪を引いたと適当にメールは送った。
僕が休むことで迷惑を被るのはその上司だろうに、すばやい返信で、了承の返事をメールで貰えた。
「しっかり休んでおけよ」
もしかしたら、ばれてたのかもしれない。
でも、出社する気は起きなかった。
とりあえずゆっくり朝食を摂る事にする。
いつもは、通勤途中に適当におにぎりやサンドイッチを買って済ませるので、家で食べるのは本当に久しぶりだった。
食パンにチーズ乗っけて、ハムを載せただけの簡単な食事。
でも、何故かとってもおいしかった。
その後は、しばらく家でごろごろしていたけれど、せっかく休みをとったのだからと外に出ることにした。
ただ問題が一つあった。
――何にもやることが無い。
思えば、受験に失敗して、浪人して、何とか卒業して苦労して入った会社で我武者羅に働いて。
とりあえず、遊ぶ暇など無かった。
今まで本当に寄り道一つしていなかったんだなぁ。
やることが思い浮かばず、適当に街を歩いてたのだけれど、やっぱり何も出来ず手持ちぶたさになって。
気付けば歩道橋の上でボーっとしていた。
「みんな、何して遊ぶんだろう」
もちろん、今は仕事中だろうが、休日会社の同僚達は何をしていたっけ。
雑談で聞いた話を思い返す。
ゴルフ、マラソン、パチンコ、映画に料理――食べ歩きって人も居たっけ。
色々誘われた気はしたけれど、どれもいまいち長続きしなかった。
楽しくなかった――やりたいことでは無かったのだ。
そもそも、僕のやりたいことって何だろう?
思い浮かばない自分にびっくりした。
ショックだった。
一つぐらいあるだろうと思って――必死に考える。
けれど、考えても考えても、思い浮かぶことは無かった。
あんまりに、浮かばなくて、しまいには考えるのに疲れてしまった。
ぼーっと歩道橋の上、車が行きかうのを眺める。
此処から飛び降りたら。きっと死ぬだろうな。
なんとなくそう考える。
怖くなかった。
死ぬ気は無かったけれど、でも、後悔もしないだろうなと思った。
それで、何故か泣きたくなった。
「何してるの?」
不意に僕の耳に入ってきた言葉は、僕の思考を停止させた。
振り返ると、そこにいたのは中学生ぐらいの女の子。色素が薄いのか、淡い灰色の髪とグレーの瞳。
一瞬天使か何かだと思っってしまった。
それくらい、整った顔立ちも、無表情に僕を見つめる瞳も、澄んだ声も、まるでこの世のものとは思えなかった。
薄い空色のワンピースを着たその少女の体は、雪のように真っ白だった。
「別に、何も」
正直に僕は答えた。
「何も無くて、ずーっと下を見てたの」
「まあ……何時から見てたの」
「十分ぐらい前から。仕事はもうとっくにはじまってる時間でしょ」
「……失業中とか、思わないの」
「うん。悲壮感漂ってないし。死んだような魚の目はしてるけど」
してるんだ。
「休んだんだよ。たまには良いかな、って思って」
「で、休んだものの、やることが無い?」
僕が、答えられずにいると、少女はやがてポツリと呟くように聞いてきた。
「死んでも別にいいかな、って思える?」
「は?」
「――何でもない。とりあえず今暇?」
「……まあ」
その返事に、少女は少し何かを考える仕草をし、やがてにっこり笑顔を僕に向けた。
不自然なくらい、可愛らしい天使の笑顔。
「ちょっと着いてきて」
「え」
「やること無いんでしょ?」
「でも」
仕事が、と言いかけて僕はやめた。
さぼってるくせに。何だか、ちょっと可笑しかった。
「わかった」
思わず笑ってしまう。
不思議そうに少女は首をかしげながらも、着いてきて、と歩き出す。
とりあえず、気が紛れれば何でも良いや。そう思った僕は少女について行く事にした。
それに、少女が僕を何処に連れて行こうとするのか興味があった。
しばらく、無言で少女について行く。
少女も淡々と僕の前を歩いていく。
「学校は?」
無言のままもしんどいのでそう僕は声をかける。
「行ってない」
「え」
「別に行く必要もないもの」
不登校と言う意味だろうか? けれど、少女はその考えを否定した。
「言っとくけど、私結構大人だよ」
そう言って、何故か悪戯っぽく微笑んだ。
「何歳?」
「内緒」
なんだそりゃ。
そうこういっているうちに、目的地に着いたようで、少女は立ち止まった。
そこは何の変哲も無いアパート。
築二十年は経っていそうなおんぼろで、正直地震が起こったら潰れそうな気がする。
少女の家だろうか、そう思いながら、促されるまま案内された部屋に入っていく。
そこには何も無かった。
がらんと、引っ越した後のように、綺麗な畳部屋。家具の一つも無い。
ただ一つ大きな毛布の塊があるだけだった。
何も無い、無さ過ぎる異常な部屋だった。
「ただいま」
そう言って、少女は靴を脱いで、部屋にあがって、毛布の塊に声をかけた。
「お仲間、連れてきたわよ」
その言葉に毛布の塊は動いて、一箇所穴が開いた。
そしてそこから頭が一つ出てきた。
それは僕と同じくらいの女の子。
黒い伸びに伸びきった髪。目の下には、大きなクマが出来ていて、まるで何かに怯えているようだった。
「仲間?」
思ったより高い澄んだ声。
「そ、死にたがりのお仲間――もどきだけど」
少女の言葉を聞いて女の子は僕を見る。
曖昧に、僕は笑って返した。
正直、状況がわからず混乱していた。
「何で、死にたいの?」
「え?」
「死にたいから来たんでしょ?」
その言葉に不思議そうに女の子は首を傾げる。
「死にたくないの?」
「まあ、とりあえずは」
「――ゆーちゃん?」
「だって、もうあんた限界でしょ、早くしないと消えちゃうよ!」
「だからって、死ぬ気の無い人連れて来るのは駄目だよ」
「連れて来ても食べないじゃない!」
「うん、そうだよ、私はもう食べない」
にへら、と女の子は力なく微笑んだ。頼りない笑顔だったのに、何故かとっても輝いて見えた。
「話が見えないんですけど」
その言葉に、少女はばつが悪そうに。頭を?いた。
「そういえば、私言ってなかったっけ?」
「うん、何にも聞いてない」
「ごめん、ちょっとお肉恵んでくれない?」
「お肉?」
「そ。あなたの身体。大丈夫、両腕無くなるだけだから――いや、片手で良い、何なら足でもいいから頂戴」
「えっと――無理」
何だ、その物騒な話は。
「痛いの嫌なんで」
「痛くないよ」
「そもそも何するの」
「食べるの?」
「へ?」
「私達、人食いなの」
思考が停止する。
人食い? 何だそれ?
「あ、信じてない――証拠見せてあげる」
そう言って――目の前の少女は半透明になって、やがて姿が完全に見えなくなった。
驚く僕の目の前に、また先程の少女が姿を現した。
「ね?」
「――関係ないような」
「あうぅ。で、でもっ、普通の人間じゃないのは――わかったよね?」
最後のほうは、何故か辛そうな口調で少女は言った。
「大丈夫、痛くないから、一瞬だから、あ、そっか対価も何も無かったもんね。お金だったら結構持ってるから好きなだけ言って」
「ゆーちゃん」
今まで黙って話を聞いていた女の子が口を挟む。
「――っ、だって、そうしないと、死んじゃうじゃん!」
少女は叫んで、ジャンプ下と思ったら、僕の首根っこを掴んだ。
「っ痛!?」
突然の事に対応できず、一瞬呆けてたら、激痛に襲われた。
「何すんだよ!」
「あ、ごめん、ごめん」
全く気持ちがこもっていない声で少女は言った。
「ほら、健康で生きのいい良い餌だよ。目が死んでるけど」
失敬な。そう思いながら、混乱してる頭で考える。
餌、何故か押し倒される、そして女の子は人を食うと言うつまり――
「餌って僕?」
「正解」
少女は言った。薄い空色のワンピースを着ているため、直に体温が伝わる。なんとなく、恥ずかしい。
「ちょっと、退いてくれない」
「嫌。あきらめなさい」
「ほら、こっち来て」
「……駄目だよ」
「もう。限界でしょ、意地張ってないで。――と言っても体が動いちゃうだろうけど」
少女の言葉のとおり、女の子はのろのろと、苦悶の表情を浮べながらけれど、確実に僕に近づいてきた。
やがて、毛布から抜け出して、僕のそばまでやってきた。
「ほら、どうぞ」
そう言って、少女は僕にまたがるのを止めて、女の子に薦めた。
僕はと言うと、いまいち状況に現実味が無くて、そのままの状態で女の子を見ていた。
「……逃げて」
女の子がそうぼそぼそと呟く。
……何故、泣きそうなのか顔をしてるのか。ああ、そうか、僕を食べるんだっけ。
いまいち、実感が湧かないけど、でもきっとそうなのだろう。
なんとなく、本当のことだとわかった。
女の子が本当に苦しそうだったから。
我慢してるのだろう。
たぶん僕を食べるのを。
理由も状況も一切合財さっぱりだけれど、とりあえず、女の子がものすごく我慢しているのがわかった。
――いつの間にか、命の危機。
ただ残念な事に。
「とりあえず、手、離して」
僕は少女に両手をがっちり掴まれていた。
それも凄い力で。びくともしない。
「いーやーだー。あ、一応遺言聞いといてあげる」
少女が思い出したように言った。
「別に無いけど、放せ!」
暴れるが、全く少女は動じない。とんでもない馬鹿力である。
「一つぐらいあるでしょうよ、ほら、最期なんだから、ちょと待ってあげるから」
そう言われるとそんな気がしてきた。
考える。
僕が遣り残したこと。やりたかったこと。残したいこと――考えても、浮かばない。
がんばって、言われた通りに生きて、生きるために自分を抑えて、気付けば何も僕は持ってない。
やりたいことも、何がしたかったのかも――全然浮かばない。
それが、ちょっと悲しかった。
「……ないや」
「本当に考えてるし。でも無いんだ、寂しいね」
まあ、別にどうと言うことでもないけれどね! とにかく放して!
女の子はもう僕の足元まで来ていた。口元には何故かよだれが溢れていて――うわぁ、ナンカコワイヨ……。
短い人生だった。
思いたくないけど、なんかもう駄目みたいです。
せめて女の子の顔を記憶に刻もうと思った。
僕の人生の最期を与える人。
ずっと篭っていたからか、地味な黒いジャージ姿。
ほっそりとした指、まん丸の瞳、目のクマがなければ、おそらくかわいいだろうなと思う外国人っぽい顔立ち。
――どこの国の血を引いてるのか。
じーっと見ている間に、あることに気付いた。
そして、それがだんだん不愉快になってきて、僕は言葉に出した。
「泣かないでよ」
「え?」
女の子が正気に戻ったのか、不思議そうに僕を見た。僕は、不機嫌を隠さずに言った。
「せっかくの最期なのに、泣かないでよ」
そう、僕は死ぬのだ。いや、死ぬ気は無いけど。
でも――
「罪悪感をもたれるのは、嫌だ」
女の子は僕を食べた後、後悔するだろう、今よりもっと泣くだろう。そしてその後もずっと――
罪悪感をもたれること、そして、彼女がこれからも泣いて過ごすであろう事。
それが嫌だった。
思えば、今生きてたって楽しいことないし、生きていたいと断言できる自身もないけれど、自分のせいで、誰かが苦しむのは真っ平ごめんだった。
仕事をさぼった罰だと思えば良い。
はじけるなら、はじけきってしまえ。
「――よし、決めた」
「え?」
「少女Aとりあえず放せ、逃げないから」
「え、うん」
素直にその言葉に手を放す少女。――根は良い子なのかもしれない。
「この子は、僕を食べないと死ぬんだよね」
よくわかんないけど。
「う、うん」
「片腕でも良い?」
「うん」
「痛くない!?」
「……うんたぶん」
「本当に?」
「うん」
「決めた」
僕は立ち上がって、女の子の手を掴んだ。
目を白黒させる女の子。
「遊びに行こう」
「え、ちょ、ちょっちょちょっと!?」
女の子はそう良いながらも、引っ張られて、僕に引っ張られるまま――細身にしては力強いけど、弱っているからなのか僕の方が力が強かった。
「半日くらい、僕を食べるの――左腕だけど、我慢できる?」
「え、あ、う、うん」
「左腕をあげる。だけど、笑って、食ってくれ。じゃないとやだ」
「へ?」
戸惑う彼女に構わず、僕は彼女の右手を引いて、歩き出した。
「お金は良い。その代わり、遊ぼう。笑顔で、可愛く、元気よく!」
後ろから、大爆笑する少女の声が聞こえたが、とりあえず無視をした。
なにより、たぶん時間はあんまり無い。
だったら、急いでこの女の子笑顔にさせなくては。
何故か、強くそう思った。
「何の、関係もないのに本当に、良いの?」
女の子は僕に引きつられて歩きながらそう聞いてきた。
見ると本当に不思議でたまらない、という顔をしていた。
「君は、何で死にたいの?」
「え?」
「時々思う、よ。私が生きると――誰かが、死ぬから……人間を食べる、から。化け物だから。それが辛い」
真剣な顔で、辛そうにそう独白する彼女の言葉は、何とも現実味が無い。
人を食べる。
想像ができない。
目の前の毛布に包まっていた女の子は、どうみても普通の人間にしか見えない。
だって、どう見ても――
「普通の女の子にしか見えないけど」
そう言うと、ありがとうと、にっこり微笑まれた。
はじめにやって来たのは、近所のデパート。なにより、ジャージ姿がいただけない。
応対した店員さんはジャージ姿の女の子に不思議そうな顔をしたものの、さすがプロで、僕が女の子に似合う服を探しているのを知ると、いろいろ持ってきてくれて、コーディネートを手伝ってくれた。
僕に促されるまま着替える女の子。
鮮やかな空色のチェニックに白と黒のストライプのスニーカーを身に着けると、野暮ったいジャージ姿と違い可愛らしい女の子になってきた。
「どう、かな?」
恥ずかしそうに。女の子は聞いてくる。
女の子に耐性が無い僕は、思わず、顔を逸らす。
「に、似合ってるよ」
「でも、顔が横を向いている、よ?」
「いや、ちょっと気恥ずかしくて」
「では――えい」
そう言って、女の子は両手で僕の頭をがっちりホールド。
「似合ってるかちゃんと見て」
「うん。似合ってると、思う! だから、放して、顔が真っ赤になるから! ……汗出るから、止めてくださいな」
「恥ずかしがりやめ」
何故か店員さんに微笑ましそうに見つめていた。。
その流れで、美容院に寄って伸びに伸びた髪をばっさり切ってもらう。
「どんな髪が良いのか、わからないのだけど」
そう言うと、ファッション誌を店員さんが数冊見繕ってくれた。
手渡された、見本から彼女が選んだのは、前をぱっつりきって、お団子ヘアー。
最初緊張した面持ちだった女の子は、けれどやがてぐっすり。
――寝るタイプのようだった。
ゆらゆら揺れる頭をがっしり抑え、器用に切りそろえる美容師さんに感心しながら、僕は待合用のソファーで待つ。
女の子しかいないと思っていたのに、案外男の人も多かった。基本、僕と同じく待つ人々だけど。
やがて、全ての工程が終了し、女の子は目を覚ます。
そしてじーっと鏡を見つめる女の子。
「可愛い……」
言ってから、恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にさせて無言で席を立つ彼女は、けれど楽しそうな笑みを浮べていた。
「似合う?」
「似合う」
前回の教訓を生かし、目を逸らさず僕は言った。
満足そうに、ありがとうと言う女の子。
その顔には、くっきりと喜色の笑みが浮かんでいた。
格好が整ったところで、何処に行こうかと聞くと、動物園と即答された。
「一回、いってみたかったから」
平日と言うことも会って、市の動物園は人の入りが少なかった。
「こんなにおしゃれしたのって久しぶり」
動物園の中を歩いていると、女の子は言った。
「そうなの?」
「うん。基本、外に出ない生活だったし」
「そっか」
ふと、あることに気付く。肝心なことを聞いていなかった。
「そういえば、名前なんていうの?」
その問いに、女の子は、少し困ったように微笑んだ。
「内緒。――ううん、捨てたの。名前。だから私はななしのごんべえちゃん」
「捨てたって」
「なんていうのかな、区切りみたいな。――色んな人の命を奪ってきた自分と別れたくて、捨てたの」
「……じゃあ、一緒にいた子はなんて呼んでたの?」
「ねえ、とか、あんたとか、まあ、結構何とでもなるもんだよ」
そう言った、女の子の顔は、悪戯っ子の様な、茶目っ気たっぷりの笑みを浮べていたけれど、どんな気持ちなのかは、僕にはわからなかった。
ラクダ、ライオン、シマウマ、象――一一通りメインの動物を見たあとに、モルモット、ウサギの触れ合いコーナーに立ち寄る。
女の子は、恐る恐るといった感じで、買った餌のにんじんをウサギにあげていた、
僕は、なんとなくモルモットを抱っこしてそれを眺めていた。
おお、もふもふ。
「シャクシャク――一生懸命で、可愛い……」
何故か、一心不乱に人参に食いつくウサギを見ながらうっとりする女の子。
幼稚園児くらいの子に紛れて目を輝かせているのはどういうもんか。――財力に物を言わせて、餌一杯買ってるし。
まあ、微笑ましいから良いのだけれど。
「好きなんだね」
「はい、ウサギは可愛いのでスキ。ああ、しゃくしゃく。もっともっとあるよー!」
ウサギがわらわら集まってくる。おお、もふもふ地獄。
目を輝かせて、餌をあげて、抱いて、ニコニコハイテンションの女の子。
もう、僕の事絶対忘れてる。
対して、モルモットたちは、のべーと寝てる。
よく見ると、子供のモルモットもいる。
「お、赤ちゃんいるんだ」
「はい、殆どオスばっかりなんで、数はそんなにいないんですけど」
僕の独り言に飼育員のおばちゃんがニコニコとそう答えてくれた。
「オスが多いんですね」
「いや、メスは殆どよそに上げちゃうから」
「? メスだけですか」
「そ。それこそ、鼠算式に増えちゃうから、殆どね」
「でも、よその動物園も困るんじゃ」
「あ、違う違う病院とかにあげるの」
「へ?」
「モルモットにすんの。本家だけにね」
あっはっは、と何故か声高に笑う飼育員のおばちゃん。
――がんばれ。
よくわからない応援の声を、ひざの上のモルモットに僕は話しかけた。
ちなみにオスだった。
結局このコーナーでかなりの時間を過ごしたのだった。
動物園から出たあと、まだ時間があったので、映画を見ようと思ったけど――演目がゾンビ物だったのでやめた。
ちなみに、純粋に、女の子が苦手だからだ。
感染したり、背後から襲って来たり、ドキドキするのがが苦手だそうで――スプラッタは平気との事。
なので、映画館近くにあるゲームセンターに寄ることにした。
夕方近くなので、人も増えてきた。
特有の喧騒に、女の子は、目を白黒。
でも、しばらく遊んでいるうちに楽しくなってきたのか、やがて率先して色々なものに挑戦しだした。
特に、ダンシングゲームが楽しかったらしく、最後の方は僕そっちのけで踊り続けていた。
「なんか、ヘンな感じ」
アパートまでの帰り道、女の子は、そう言った。
人間以外にも食べれることは食べれると言うので、買ったクレープをほうばる彼女。
むしろ、人を食べるのは食事以外の意味があるらしい。
「こんなに楽しかったのひさしぶりかも」
誰も居ない土手沿いは、心地よい風が吹いていた。
結局ゲーセンの閉店時間まで僕と女の子は遊んでいた。
正直、結構疲労感が残っている。
「僕も、初めてかな」
女の子と遊んだのも、会社をサボったのも、こんなに楽しい気分になたtのも。――散財したのも。
まあ、どうせ使う予定も無いので別にいけれど。むしろ、こんなに楽しい思いが出来てよかった。
「家についたらさ」
僕は、立ち止まって女の子の方に向き直る。
「食べてくれる?」
途端に、笑顔だった女の子の顔が少し曇る。
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
その言葉に女の子はちょっと驚いたように僕を見た。
僕は女の子の目を真っ直ぐ見つめる。
正直に話したかった。
「生きていく理由が何も無かったんだ」
僕は言った。
「楽しいと思えることも、泣きたくなるよな事も、全部避けて逃げてきた。――言われたとおりに、流されるまま生きてきた。誰かと比べられて、笑われてきたから、ずっと一人になりたくて我慢してるうちに何もかも捨ててたんだよ」
生きる意味も、夢も、希望も――繰り返し続く毎日と引き換えに。
ちょっと、情けなくて、僕は苦笑いした。
「やりたいことが、本当に無くてさ、可笑しいと思うかもしれないけど、本当に何も無いんだよ」
それが、嫌で、でも、どうしようもなくて。
「だから、今日は、本当によかった。腕一本でこんな良い思いができて」
痛いのは、嫌だけど。
「……」
「今日はじめて、やりたいことが出来たから」
「え」
「君をどうやったら笑顔に出来るかなって――僕みたいな人、たぶん、もっと生きるのが嫌になった人達を食べてきたんでしょ?」
自殺する人間なんて、腐るほど沢山居る。あの灰色の髪の少女が死のうとする場面を沢山見てきたのは、そういう訳だろう。
食べるため。何せ、死のうとしてる人間だ。抵抗もしないだろうし、罪悪感も――まあ少ないに違いない。
どうせ死んじゃうのだから。
黙りっぱなしの彼女の僕は笑顔を向けた。
「どうせ、死ぬ人たちだから、気にしないで良いと思う。ううん、そう割り切れないからこそ苦しんでたんだろうと思うけど――だから、まあ、僕の腕をそれまでの場もたせに食べてよ」
喜んで食べられてあげる。少しの間だけでも、空腹を満たして欲しい。
「痛いのは嫌だから、出来るだけ、一瞬でお願いします」
あ、痛くないって言ってたっけ。
そう言って僕は目を閉じた。
やがて、彼女が近づく音がする。
彼女の手が、僕の手を触れる――でも、それ以上何も起きなかった。
「――れるわけない……食べられるわけ無いじゃない!」
目を開けると、泣き崩れている彼女が居た。
「こんな、こんなことされてさぁ、食べれるわけ無いよ……」
うろたえる僕に、彼女は縋りついた。
「こんなことしてくれたの、あなたが初めてで、嬉しくて、楽しくて、でも、こんな終わり方はやだ」
そう言った、彼女は何故か唇をきつくかんでいた。
「また会いに来るよ」
女の子は笑って首を振る。目には何故か涙。
「あれは、ゆーちゃんの嘘よ。――一度食べ始めたら、止らないわ。――食べきっちゃう」
「え」
苦しそうな息遣い。今にも倒れそうな顔色。
きっと、色々限界なのだろう。
「じゃあ、どうするの?」
だって、食べないと――彼女は死ぬと言っていた。一日遊んでいる中でポツリと語ったのは、人を食べるのは、食べないと、やがて朽ちて死んでしまうからだと。
「簡単なことよ」
彼女はそう言った。
そして、何故かにっこり微笑んだ。
「ちょっと目を瞑って」
言われるままに目を瞑る。
頬に温かい感触があった。
驚いて、目を開けてしまうと、眼前に彼女の顔があった。
「目瞑ってって言ったのに」
彼女は苦笑いして言った。
「今日のお礼。唇は未来の彼女にしてもらってね」
「でも――」
こんな終わりかたってない。
そう言おうと思ったら、でこぴんされた。
「幸せでした。誰がなんと言おうと、私は私らしく生きた。――途中寄り道もしたけど。でも、後悔してない。だからさ、私の分まで生きて。私が味わえなかった分、思いっきり生きることを楽しんで。今日楽しかったでしょ? あなたなら大丈夫」
まるでこれでは遺言だ。
不思議に思っていると、あることに気付く。
彼女の指が――まるで砂ので出来たお城が崩れるようにさらさらとゆっくりと崩れはじめていた。
「あー、もうか。早かったなぁ。でも、良かった。最期にこんなに楽しい思い出が出来てさ」
そう言った彼女は、僕を見て、ちょっと悲しそうに微笑んだ。
「こら、泣かないでよ。死ぬに死ねないじゃない」
僕は、何とか笑って見せた。
よし、と彼女は満足そうに笑った。
やがて、彼女の体の崩壊は全身に広がっていた。
「あはは。駄目だ。覚悟してたのにね。死ぬのって、こんなに怖いんだね――ああ、ねえ、ちょっと怖いからさ、手にぎって」
慌てて彼女に触れる。さらさらと、崩れる彼女はそれでも温かかった。
「あ、お姉ちゃんに宜しくね。出来れば仲良くしてくれると嬉しいかな」
お姉ちゃん? 誰だろうか、聞こうと思ったが、彼女はもう崩れ去ろうとしているところだった。
「バイバイ――」
その一言で、彼女は完全に消え去った。残ったのは、今日買った服と、手に残る温かな感触だけだった。
「ありがとう、妹を見取ってくれて」
呆然とその場で立ち尽くしている僕はその声で、正気に返る。
灰色の髪の少女が、そこに居た。
何故か苦笑いをしながら。
「まさか、本当に消滅しちゃうなんて。我が妹の強情なこと」
「――もしかして、お姉ちゃん?」
「そ、何か言ってた? 姿消して後付いてきたんだけどさ、ちょっと声までは聞けなかったから」
「お姉ちゃんに宜しくって。――あと、仲良くしてあげてって」
「もお、あの子は」
そう言って、笑って――表情を崩して、少女は突然僕の背中に抱きついた。
「泣いて、良い?」
僕が、頷くと、顔を僕の背中に押し付けて――静かにけれど、激しく少女は泣き始めた。
少女――夕実と一緒に暮らすようになったのは、それからすぐの事だ。
「ごめんね、泣いちゃって」
「ううん、全然」
寝室で二人寝転がりながらごろごろ夜のひと時を過ごす。
夕実はもう吹っ切れたようで、いつものように元気に満ち溢れていた。
「あー、今日もつーかーれーた」
「今日もなんちゃってさんだったの?」
「そ。死ぬ気なんて無くて、ちょっと怪我するつもりだったんだって――私が止めなかったら死んでるっつーの」
夕実は死ぬ気が無い人は食わない。むしろ、死のうとしても、何とか生きるように引き止める。
曰く、そうしても生きていけるだけの死があるからだそうで。
頭をなでると、嬉しそうに彼女はほほ笑んだ.
「お疲れ様でした」
「あんがと」
そう言って、彼女は、少し真面目な顔になった。
「死にたがりが、居なくなったら良いなとは思うけど――全く居なくても困るし難儀な体だよね」
「もしそうなったら、どうするの?」
「とりあえず、他の子みたいに、尊厳死分野に手を出しても良いけどさ――殺し屋さんはもう勘弁だし」
微笑む彼女は何を考えているかわからない。
でも、ずっと一緒にいられたらなと思う。
今は、まだ何のために生きているのかわからなくなるけど――彼女と居ると、ほんの少しだけ、その悩みがどうでもよくなる。
それはきっと、この胸に抱える想いのおかげだ。
「何にしてもずっと一緒に入れたら良いなぁ」
まだ、その正体は口にするのは臆病な僕には難しいけど。代わりに僕はそう言った。
「そだね――ふふ、ヘンなの。ずっと妹と二人きりだと思ってたのに」
そう言って、夕実はいきなり僕に抱きついてきた。
「ありがと。こんな私と一緒に居てくれてさ」
その温もりだけで、なんかもう、色々十分だった。
fin
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雪が降っているせいかもしれない。
普段はそれなりに人とすれ違うはずなのに、記憶にあるのは行きかう車と吹雪く雪景色。
人っ子一人居なかった。
帰り道、冷たくて、寒くて。
少しブルーな気分になりながら、僕は一人寂しく家路に着いた。
家に入って、ガスコンロに火をつけて、温かいココアを飲んで一息つくと、体の心から寒さに震えていたことに気付く。
そんな日だからなのかもしれない。
やがて遅れて帰ってきた夕実は何だか泣きな顔をしていた。
――いや、違う、今日だからだ。
僕は一瞬で思い出す。そして、その事を少しの間でも忘れていたことを後悔した。
無表情に、ただいまと呟く夕実は、いつもの活発な元気一杯の輝きはなく、まるで迷子になった子供みたいだった。
おかえり、と僕が言った時、いつものように微笑むのだけれど、ちょっと頼りない。
なんていうか、無理してるように見えた。
いつもは、夕実のおしゃべりに相槌を打ちながら、にぎやかに過ごすのだけれど、今日はお互い無言で。
淡々と最低限の行為を済ませる。
ご飯を食べて、お風呂に入って。
黙っているだけ。それだけで、少し悲しい気持ちになってくる。
気付けば寝るちょっと前。
リビングに置かれたソファーに座りながら、僕はぼんやり外をみた。
降り積もる雪は、辺りを覆いつくし、静寂の世界へと変えていく。
僅かに、聞こえるのは壁一枚隔てた夕実の着替える物音とテレビのどうでもいい雑談ぐらい。
なんて声をかけよう。
慰める?
でも、どうやって?
悩むうちに着替え終わった夕実がやってきた。
「おまたせ」
そう言って、ぼっふと勢いよく僕の隣に座り込む。
「大丈夫?」
「ん、何が」
「元気ないよ」
その一言に、彼女は苦笑い。
「あ、やっぱり?」
やがて彼女は無言で僕に寄りかかってきた。
「やっぱ、ちょっとね――辛れぇのですよ」
「うん」
お風呂上りの温かい肌の温もりと、少し甘い髪の匂い。
なんとなく、頭を撫でると、むふっっとなぜか笑われた。
「何故撫でるのじゃ」
「……なんとなく」
「じゃあ、そのままなんとなく撫でといて」
しばらく無言でそのまま。夕実の頭を撫でる僕と、じーっとどこか遠くをな眺める彼女。
世界の音が全て止ったみたいだった。
かしましいテレビだけが浮いたように無遠慮に音を響かせる。
「泣いてもいい?」
やがて、彼女はそう漏らした。
「いいよ」
僕が、そう言うと、あんがと、と小さい声で彼女は呟いた。
若干湿った啜り声が聞こえた。
僕は頭を撫でることに専念する。
なんだか、普段とあべこべで変な感じ。
いつも、誰かを叱咤激励し、元気に動き回る彼女。
誰かに、元気を分け与える人。
じゃあ、誰が夕実に元気を分け与えたら良い?
――僕か。
何も出来ない自分が恨めしい。何にもも無い自分が情けない。
今の僕には、肩を小さく震わせる彼女のそばにいることしか出来ない。
それで十分よ。夕実はきっとそう言ってくれるのだろうけど。
その日生まれて初めて僕は仕事をさぼった。
何故そんな事をしたのか今思い返してもよくわからない。
なんとなく、だ。
気持ちがなんとなく下向きで、身体が何故か気だるくて、そして眠い。
朝起きて、休もうと決めた。
一応上司に風邪を引いたと適当にメールは送った。
僕が休むことで迷惑を被るのはその上司だろうに、すばやい返信で、了承の返事をメールで貰えた。
「しっかり休んでおけよ」
もしかしたら、ばれてたのかもしれない。
でも、出社する気は起きなかった。
とりあえずゆっくり朝食を摂る事にする。
いつもは、通勤途中に適当におにぎりやサンドイッチを買って済ませるので、家で食べるのは本当に久しぶりだった。
食パンにチーズ乗っけて、ハムを載せただけの簡単な食事。
でも、何故かとってもおいしかった。
その後は、しばらく家でごろごろしていたけれど、せっかく休みをとったのだからと外に出ることにした。
ただ問題が一つあった。
――何にもやることが無い。
思えば、受験に失敗して、浪人して、何とか卒業して苦労して入った会社で我武者羅に働いて。
とりあえず、遊ぶ暇など無かった。
今まで本当に寄り道一つしていなかったんだなぁ。
やることが思い浮かばず、適当に街を歩いてたのだけれど、やっぱり何も出来ず手持ちぶたさになって。
気付けば歩道橋の上でボーっとしていた。
「みんな、何して遊ぶんだろう」
もちろん、今は仕事中だろうが、休日会社の同僚達は何をしていたっけ。
雑談で聞いた話を思い返す。
ゴルフ、マラソン、パチンコ、映画に料理――食べ歩きって人も居たっけ。
色々誘われた気はしたけれど、どれもいまいち長続きしなかった。
楽しくなかった――やりたいことでは無かったのだ。
そもそも、僕のやりたいことって何だろう?
思い浮かばない自分にびっくりした。
ショックだった。
一つぐらいあるだろうと思って――必死に考える。
けれど、考えても考えても、思い浮かぶことは無かった。
あんまりに、浮かばなくて、しまいには考えるのに疲れてしまった。
ぼーっと歩道橋の上、車が行きかうのを眺める。
此処から飛び降りたら。きっと死ぬだろうな。
なんとなくそう考える。
怖くなかった。
死ぬ気は無かったけれど、でも、後悔もしないだろうなと思った。
それで、何故か泣きたくなった。
「何してるの?」
不意に僕の耳に入ってきた言葉は、僕の思考を停止させた。
振り返ると、そこにいたのは中学生ぐらいの女の子。色素が薄いのか、淡い灰色の髪とグレーの瞳。
一瞬天使か何かだと思っってしまった。
それくらい、整った顔立ちも、無表情に僕を見つめる瞳も、澄んだ声も、まるでこの世のものとは思えなかった。
薄い空色のワンピースを着たその少女の体は、雪のように真っ白だった。
「別に、何も」
正直に僕は答えた。
「何も無くて、ずーっと下を見てたの」
「まあ……何時から見てたの」
「十分ぐらい前から。仕事はもうとっくにはじまってる時間でしょ」
「……失業中とか、思わないの」
「うん。悲壮感漂ってないし。死んだような魚の目はしてるけど」
してるんだ。
「休んだんだよ。たまには良いかな、って思って」
「で、休んだものの、やることが無い?」
僕が、答えられずにいると、少女はやがてポツリと呟くように聞いてきた。
「死んでも別にいいかな、って思える?」
「は?」
「――何でもない。とりあえず今暇?」
「……まあ」
その返事に、少女は少し何かを考える仕草をし、やがてにっこり笑顔を僕に向けた。
不自然なくらい、可愛らしい天使の笑顔。
「ちょっと着いてきて」
「え」
「やること無いんでしょ?」
「でも」
仕事が、と言いかけて僕はやめた。
さぼってるくせに。何だか、ちょっと可笑しかった。
「わかった」
思わず笑ってしまう。
不思議そうに少女は首をかしげながらも、着いてきて、と歩き出す。
とりあえず、気が紛れれば何でも良いや。そう思った僕は少女について行く事にした。
それに、少女が僕を何処に連れて行こうとするのか興味があった。
しばらく、無言で少女について行く。
少女も淡々と僕の前を歩いていく。
「学校は?」
無言のままもしんどいのでそう僕は声をかける。
「行ってない」
「え」
「別に行く必要もないもの」
不登校と言う意味だろうか? けれど、少女はその考えを否定した。
「言っとくけど、私結構大人だよ」
そう言って、何故か悪戯っぽく微笑んだ。
「何歳?」
「内緒」
なんだそりゃ。
そうこういっているうちに、目的地に着いたようで、少女は立ち止まった。
そこは何の変哲も無いアパート。
築二十年は経っていそうなおんぼろで、正直地震が起こったら潰れそうな気がする。
少女の家だろうか、そう思いながら、促されるまま案内された部屋に入っていく。
そこには何も無かった。
がらんと、引っ越した後のように、綺麗な畳部屋。家具の一つも無い。
ただ一つ大きな毛布の塊があるだけだった。
何も無い、無さ過ぎる異常な部屋だった。
「ただいま」
そう言って、少女は靴を脱いで、部屋にあがって、毛布の塊に声をかけた。
「お仲間、連れてきたわよ」
その言葉に毛布の塊は動いて、一箇所穴が開いた。
そしてそこから頭が一つ出てきた。
それは僕と同じくらいの女の子。
黒い伸びに伸びきった髪。目の下には、大きなクマが出来ていて、まるで何かに怯えているようだった。
「仲間?」
思ったより高い澄んだ声。
「そ、死にたがりのお仲間――もどきだけど」
少女の言葉を聞いて女の子は僕を見る。
曖昧に、僕は笑って返した。
正直、状況がわからず混乱していた。
「何で、死にたいの?」
「え?」
「死にたいから来たんでしょ?」
その言葉に不思議そうに女の子は首を傾げる。
「死にたくないの?」
「まあ、とりあえずは」
「――ゆーちゃん?」
「だって、もうあんた限界でしょ、早くしないと消えちゃうよ!」
「だからって、死ぬ気の無い人連れて来るのは駄目だよ」
「連れて来ても食べないじゃない!」
「うん、そうだよ、私はもう食べない」
にへら、と女の子は力なく微笑んだ。頼りない笑顔だったのに、何故かとっても輝いて見えた。
「話が見えないんですけど」
その言葉に、少女はばつが悪そうに。頭を?いた。
「そういえば、私言ってなかったっけ?」
「うん、何にも聞いてない」
「ごめん、ちょっとお肉恵んでくれない?」
「お肉?」
「そ。あなたの身体。大丈夫、両腕無くなるだけだから――いや、片手で良い、何なら足でもいいから頂戴」
「えっと――無理」
何だ、その物騒な話は。
「痛いの嫌なんで」
「痛くないよ」
「そもそも何するの」
「食べるの?」
「へ?」
「私達、人食いなの」
思考が停止する。
人食い? 何だそれ?
「あ、信じてない――証拠見せてあげる」
そう言って――目の前の少女は半透明になって、やがて姿が完全に見えなくなった。
驚く僕の目の前に、また先程の少女が姿を現した。
「ね?」
「――関係ないような」
「あうぅ。で、でもっ、普通の人間じゃないのは――わかったよね?」
最後のほうは、何故か辛そうな口調で少女は言った。
「大丈夫、痛くないから、一瞬だから、あ、そっか対価も何も無かったもんね。お金だったら結構持ってるから好きなだけ言って」
「ゆーちゃん」
今まで黙って話を聞いていた女の子が口を挟む。
「――っ、だって、そうしないと、死んじゃうじゃん!」
少女は叫んで、ジャンプ下と思ったら、僕の首根っこを掴んだ。
「っ痛!?」
突然の事に対応できず、一瞬呆けてたら、激痛に襲われた。
「何すんだよ!」
「あ、ごめん、ごめん」
全く気持ちがこもっていない声で少女は言った。
「ほら、健康で生きのいい良い餌だよ。目が死んでるけど」
失敬な。そう思いながら、混乱してる頭で考える。
餌、何故か押し倒される、そして女の子は人を食うと言うつまり――
「餌って僕?」
「正解」
少女は言った。薄い空色のワンピースを着ているため、直に体温が伝わる。なんとなく、恥ずかしい。
「ちょっと、退いてくれない」
「嫌。あきらめなさい」
「ほら、こっち来て」
「……駄目だよ」
「もう。限界でしょ、意地張ってないで。――と言っても体が動いちゃうだろうけど」
少女の言葉のとおり、女の子はのろのろと、苦悶の表情を浮べながらけれど、確実に僕に近づいてきた。
やがて、毛布から抜け出して、僕のそばまでやってきた。
「ほら、どうぞ」
そう言って、少女は僕にまたがるのを止めて、女の子に薦めた。
僕はと言うと、いまいち状況に現実味が無くて、そのままの状態で女の子を見ていた。
「……逃げて」
女の子がそうぼそぼそと呟く。
……何故、泣きそうなのか顔をしてるのか。ああ、そうか、僕を食べるんだっけ。
いまいち、実感が湧かないけど、でもきっとそうなのだろう。
なんとなく、本当のことだとわかった。
女の子が本当に苦しそうだったから。
我慢してるのだろう。
たぶん僕を食べるのを。
理由も状況も一切合財さっぱりだけれど、とりあえず、女の子がものすごく我慢しているのがわかった。
――いつの間にか、命の危機。
ただ残念な事に。
「とりあえず、手、離して」
僕は少女に両手をがっちり掴まれていた。
それも凄い力で。びくともしない。
「いーやーだー。あ、一応遺言聞いといてあげる」
少女が思い出したように言った。
「別に無いけど、放せ!」
暴れるが、全く少女は動じない。とんでもない馬鹿力である。
「一つぐらいあるでしょうよ、ほら、最期なんだから、ちょと待ってあげるから」
そう言われるとそんな気がしてきた。
考える。
僕が遣り残したこと。やりたかったこと。残したいこと――考えても、浮かばない。
がんばって、言われた通りに生きて、生きるために自分を抑えて、気付けば何も僕は持ってない。
やりたいことも、何がしたかったのかも――全然浮かばない。
それが、ちょっと悲しかった。
「……ないや」
「本当に考えてるし。でも無いんだ、寂しいね」
まあ、別にどうと言うことでもないけれどね! とにかく放して!
女の子はもう僕の足元まで来ていた。口元には何故かよだれが溢れていて――うわぁ、ナンカコワイヨ……。
短い人生だった。
思いたくないけど、なんかもう駄目みたいです。
せめて女の子の顔を記憶に刻もうと思った。
僕の人生の最期を与える人。
ずっと篭っていたからか、地味な黒いジャージ姿。
ほっそりとした指、まん丸の瞳、目のクマがなければ、おそらくかわいいだろうなと思う外国人っぽい顔立ち。
――どこの国の血を引いてるのか。
じーっと見ている間に、あることに気付いた。
そして、それがだんだん不愉快になってきて、僕は言葉に出した。
「泣かないでよ」
「え?」
女の子が正気に戻ったのか、不思議そうに僕を見た。僕は、不機嫌を隠さずに言った。
「せっかくの最期なのに、泣かないでよ」
そう、僕は死ぬのだ。いや、死ぬ気は無いけど。
でも――
「罪悪感をもたれるのは、嫌だ」
女の子は僕を食べた後、後悔するだろう、今よりもっと泣くだろう。そしてその後もずっと――
罪悪感をもたれること、そして、彼女がこれからも泣いて過ごすであろう事。
それが嫌だった。
思えば、今生きてたって楽しいことないし、生きていたいと断言できる自身もないけれど、自分のせいで、誰かが苦しむのは真っ平ごめんだった。
仕事をさぼった罰だと思えば良い。
はじけるなら、はじけきってしまえ。
「――よし、決めた」
「え?」
「少女Aとりあえず放せ、逃げないから」
「え、うん」
素直にその言葉に手を放す少女。――根は良い子なのかもしれない。
「この子は、僕を食べないと死ぬんだよね」
よくわかんないけど。
「う、うん」
「片腕でも良い?」
「うん」
「痛くない!?」
「……うんたぶん」
「本当に?」
「うん」
「決めた」
僕は立ち上がって、女の子の手を掴んだ。
目を白黒させる女の子。
「遊びに行こう」
「え、ちょ、ちょっちょちょっと!?」
女の子はそう良いながらも、引っ張られて、僕に引っ張られるまま――細身にしては力強いけど、弱っているからなのか僕の方が力が強かった。
「半日くらい、僕を食べるの――左腕だけど、我慢できる?」
「え、あ、う、うん」
「左腕をあげる。だけど、笑って、食ってくれ。じゃないとやだ」
「へ?」
戸惑う彼女に構わず、僕は彼女の右手を引いて、歩き出した。
「お金は良い。その代わり、遊ぼう。笑顔で、可愛く、元気よく!」
後ろから、大爆笑する少女の声が聞こえたが、とりあえず無視をした。
なにより、たぶん時間はあんまり無い。
だったら、急いでこの女の子笑顔にさせなくては。
何故か、強くそう思った。
「何の、関係もないのに本当に、良いの?」
女の子は僕に引きつられて歩きながらそう聞いてきた。
見ると本当に不思議でたまらない、という顔をしていた。
「君は、何で死にたいの?」
「え?」
「時々思う、よ。私が生きると――誰かが、死ぬから……人間を食べる、から。化け物だから。それが辛い」
真剣な顔で、辛そうにそう独白する彼女の言葉は、何とも現実味が無い。
人を食べる。
想像ができない。
目の前の毛布に包まっていた女の子は、どうみても普通の人間にしか見えない。
だって、どう見ても――
「普通の女の子にしか見えないけど」
そう言うと、ありがとうと、にっこり微笑まれた。
はじめにやって来たのは、近所のデパート。なにより、ジャージ姿がいただけない。
応対した店員さんはジャージ姿の女の子に不思議そうな顔をしたものの、さすがプロで、僕が女の子に似合う服を探しているのを知ると、いろいろ持ってきてくれて、コーディネートを手伝ってくれた。
僕に促されるまま着替える女の子。
鮮やかな空色のチェニックに白と黒のストライプのスニーカーを身に着けると、野暮ったいジャージ姿と違い可愛らしい女の子になってきた。
「どう、かな?」
恥ずかしそうに。女の子は聞いてくる。
女の子に耐性が無い僕は、思わず、顔を逸らす。
「に、似合ってるよ」
「でも、顔が横を向いている、よ?」
「いや、ちょっと気恥ずかしくて」
「では――えい」
そう言って、女の子は両手で僕の頭をがっちりホールド。
「似合ってるかちゃんと見て」
「うん。似合ってると、思う! だから、放して、顔が真っ赤になるから! ……汗出るから、止めてくださいな」
「恥ずかしがりやめ」
何故か店員さんに微笑ましそうに見つめていた。。
その流れで、美容院に寄って伸びに伸びた髪をばっさり切ってもらう。
「どんな髪が良いのか、わからないのだけど」
そう言うと、ファッション誌を店員さんが数冊見繕ってくれた。
手渡された、見本から彼女が選んだのは、前をぱっつりきって、お団子ヘアー。
最初緊張した面持ちだった女の子は、けれどやがてぐっすり。
――寝るタイプのようだった。
ゆらゆら揺れる頭をがっしり抑え、器用に切りそろえる美容師さんに感心しながら、僕は待合用のソファーで待つ。
女の子しかいないと思っていたのに、案外男の人も多かった。基本、僕と同じく待つ人々だけど。
やがて、全ての工程が終了し、女の子は目を覚ます。
そしてじーっと鏡を見つめる女の子。
「可愛い……」
言ってから、恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にさせて無言で席を立つ彼女は、けれど楽しそうな笑みを浮べていた。
「似合う?」
「似合う」
前回の教訓を生かし、目を逸らさず僕は言った。
満足そうに、ありがとうと言う女の子。
その顔には、くっきりと喜色の笑みが浮かんでいた。
格好が整ったところで、何処に行こうかと聞くと、動物園と即答された。
「一回、いってみたかったから」
平日と言うことも会って、市の動物園は人の入りが少なかった。
「こんなにおしゃれしたのって久しぶり」
動物園の中を歩いていると、女の子は言った。
「そうなの?」
「うん。基本、外に出ない生活だったし」
「そっか」
ふと、あることに気付く。肝心なことを聞いていなかった。
「そういえば、名前なんていうの?」
その問いに、女の子は、少し困ったように微笑んだ。
「内緒。――ううん、捨てたの。名前。だから私はななしのごんべえちゃん」
「捨てたって」
「なんていうのかな、区切りみたいな。――色んな人の命を奪ってきた自分と別れたくて、捨てたの」
「……じゃあ、一緒にいた子はなんて呼んでたの?」
「ねえ、とか、あんたとか、まあ、結構何とでもなるもんだよ」
そう言った、女の子の顔は、悪戯っ子の様な、茶目っ気たっぷりの笑みを浮べていたけれど、どんな気持ちなのかは、僕にはわからなかった。
ラクダ、ライオン、シマウマ、象――一一通りメインの動物を見たあとに、モルモット、ウサギの触れ合いコーナーに立ち寄る。
女の子は、恐る恐るといった感じで、買った餌のにんじんをウサギにあげていた、
僕は、なんとなくモルモットを抱っこしてそれを眺めていた。
おお、もふもふ。
「シャクシャク――一生懸命で、可愛い……」
何故か、一心不乱に人参に食いつくウサギを見ながらうっとりする女の子。
幼稚園児くらいの子に紛れて目を輝かせているのはどういうもんか。――財力に物を言わせて、餌一杯買ってるし。
まあ、微笑ましいから良いのだけれど。
「好きなんだね」
「はい、ウサギは可愛いのでスキ。ああ、しゃくしゃく。もっともっとあるよー!」
ウサギがわらわら集まってくる。おお、もふもふ地獄。
目を輝かせて、餌をあげて、抱いて、ニコニコハイテンションの女の子。
もう、僕の事絶対忘れてる。
対して、モルモットたちは、のべーと寝てる。
よく見ると、子供のモルモットもいる。
「お、赤ちゃんいるんだ」
「はい、殆どオスばっかりなんで、数はそんなにいないんですけど」
僕の独り言に飼育員のおばちゃんがニコニコとそう答えてくれた。
「オスが多いんですね」
「いや、メスは殆どよそに上げちゃうから」
「? メスだけですか」
「そ。それこそ、鼠算式に増えちゃうから、殆どね」
「でも、よその動物園も困るんじゃ」
「あ、違う違う病院とかにあげるの」
「へ?」
「モルモットにすんの。本家だけにね」
あっはっは、と何故か声高に笑う飼育員のおばちゃん。
――がんばれ。
よくわからない応援の声を、ひざの上のモルモットに僕は話しかけた。
ちなみにオスだった。
結局このコーナーでかなりの時間を過ごしたのだった。
動物園から出たあと、まだ時間があったので、映画を見ようと思ったけど――演目がゾンビ物だったのでやめた。
ちなみに、純粋に、女の子が苦手だからだ。
感染したり、背後から襲って来たり、ドキドキするのがが苦手だそうで――スプラッタは平気との事。
なので、映画館近くにあるゲームセンターに寄ることにした。
夕方近くなので、人も増えてきた。
特有の喧騒に、女の子は、目を白黒。
でも、しばらく遊んでいるうちに楽しくなってきたのか、やがて率先して色々なものに挑戦しだした。
特に、ダンシングゲームが楽しかったらしく、最後の方は僕そっちのけで踊り続けていた。
「なんか、ヘンな感じ」
アパートまでの帰り道、女の子は、そう言った。
人間以外にも食べれることは食べれると言うので、買ったクレープをほうばる彼女。
むしろ、人を食べるのは食事以外の意味があるらしい。
「こんなに楽しかったのひさしぶりかも」
誰も居ない土手沿いは、心地よい風が吹いていた。
結局ゲーセンの閉店時間まで僕と女の子は遊んでいた。
正直、結構疲労感が残っている。
「僕も、初めてかな」
女の子と遊んだのも、会社をサボったのも、こんなに楽しい気分になたtのも。――散財したのも。
まあ、どうせ使う予定も無いので別にいけれど。むしろ、こんなに楽しい思いが出来てよかった。
「家についたらさ」
僕は、立ち止まって女の子の方に向き直る。
「食べてくれる?」
途端に、笑顔だった女の子の顔が少し曇る。
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
その言葉に女の子はちょっと驚いたように僕を見た。
僕は女の子の目を真っ直ぐ見つめる。
正直に話したかった。
「生きていく理由が何も無かったんだ」
僕は言った。
「楽しいと思えることも、泣きたくなるよな事も、全部避けて逃げてきた。――言われたとおりに、流されるまま生きてきた。誰かと比べられて、笑われてきたから、ずっと一人になりたくて我慢してるうちに何もかも捨ててたんだよ」
生きる意味も、夢も、希望も――繰り返し続く毎日と引き換えに。
ちょっと、情けなくて、僕は苦笑いした。
「やりたいことが、本当に無くてさ、可笑しいと思うかもしれないけど、本当に何も無いんだよ」
それが、嫌で、でも、どうしようもなくて。
「だから、今日は、本当によかった。腕一本でこんな良い思いができて」
痛いのは、嫌だけど。
「……」
「今日はじめて、やりたいことが出来たから」
「え」
「君をどうやったら笑顔に出来るかなって――僕みたいな人、たぶん、もっと生きるのが嫌になった人達を食べてきたんでしょ?」
自殺する人間なんて、腐るほど沢山居る。あの灰色の髪の少女が死のうとする場面を沢山見てきたのは、そういう訳だろう。
食べるため。何せ、死のうとしてる人間だ。抵抗もしないだろうし、罪悪感も――まあ少ないに違いない。
どうせ死んじゃうのだから。
黙りっぱなしの彼女の僕は笑顔を向けた。
「どうせ、死ぬ人たちだから、気にしないで良いと思う。ううん、そう割り切れないからこそ苦しんでたんだろうと思うけど――だから、まあ、僕の腕をそれまでの場もたせに食べてよ」
喜んで食べられてあげる。少しの間だけでも、空腹を満たして欲しい。
「痛いのは嫌だから、出来るだけ、一瞬でお願いします」
あ、痛くないって言ってたっけ。
そう言って僕は目を閉じた。
やがて、彼女が近づく音がする。
彼女の手が、僕の手を触れる――でも、それ以上何も起きなかった。
「――れるわけない……食べられるわけ無いじゃない!」
目を開けると、泣き崩れている彼女が居た。
「こんな、こんなことされてさぁ、食べれるわけ無いよ……」
うろたえる僕に、彼女は縋りついた。
「こんなことしてくれたの、あなたが初めてで、嬉しくて、楽しくて、でも、こんな終わり方はやだ」
そう言った、彼女は何故か唇をきつくかんでいた。
「また会いに来るよ」
女の子は笑って首を振る。目には何故か涙。
「あれは、ゆーちゃんの嘘よ。――一度食べ始めたら、止らないわ。――食べきっちゃう」
「え」
苦しそうな息遣い。今にも倒れそうな顔色。
きっと、色々限界なのだろう。
「じゃあ、どうするの?」
だって、食べないと――彼女は死ぬと言っていた。一日遊んでいる中でポツリと語ったのは、人を食べるのは、食べないと、やがて朽ちて死んでしまうからだと。
「簡単なことよ」
彼女はそう言った。
そして、何故かにっこり微笑んだ。
「ちょっと目を瞑って」
言われるままに目を瞑る。
頬に温かい感触があった。
驚いて、目を開けてしまうと、眼前に彼女の顔があった。
「目瞑ってって言ったのに」
彼女は苦笑いして言った。
「今日のお礼。唇は未来の彼女にしてもらってね」
「でも――」
こんな終わりかたってない。
そう言おうと思ったら、でこぴんされた。
「幸せでした。誰がなんと言おうと、私は私らしく生きた。――途中寄り道もしたけど。でも、後悔してない。だからさ、私の分まで生きて。私が味わえなかった分、思いっきり生きることを楽しんで。今日楽しかったでしょ? あなたなら大丈夫」
まるでこれでは遺言だ。
不思議に思っていると、あることに気付く。
彼女の指が――まるで砂ので出来たお城が崩れるようにさらさらとゆっくりと崩れはじめていた。
「あー、もうか。早かったなぁ。でも、良かった。最期にこんなに楽しい思い出が出来てさ」
そう言った彼女は、僕を見て、ちょっと悲しそうに微笑んだ。
「こら、泣かないでよ。死ぬに死ねないじゃない」
僕は、何とか笑って見せた。
よし、と彼女は満足そうに笑った。
やがて、彼女の体の崩壊は全身に広がっていた。
「あはは。駄目だ。覚悟してたのにね。死ぬのって、こんなに怖いんだね――ああ、ねえ、ちょっと怖いからさ、手にぎって」
慌てて彼女に触れる。さらさらと、崩れる彼女はそれでも温かかった。
「あ、お姉ちゃんに宜しくね。出来れば仲良くしてくれると嬉しいかな」
お姉ちゃん? 誰だろうか、聞こうと思ったが、彼女はもう崩れ去ろうとしているところだった。
「バイバイ――」
その一言で、彼女は完全に消え去った。残ったのは、今日買った服と、手に残る温かな感触だけだった。
「ありがとう、妹を見取ってくれて」
呆然とその場で立ち尽くしている僕はその声で、正気に返る。
灰色の髪の少女が、そこに居た。
何故か苦笑いをしながら。
「まさか、本当に消滅しちゃうなんて。我が妹の強情なこと」
「――もしかして、お姉ちゃん?」
「そ、何か言ってた? 姿消して後付いてきたんだけどさ、ちょっと声までは聞けなかったから」
「お姉ちゃんに宜しくって。――あと、仲良くしてあげてって」
「もお、あの子は」
そう言って、笑って――表情を崩して、少女は突然僕の背中に抱きついた。
「泣いて、良い?」
僕が、頷くと、顔を僕の背中に押し付けて――静かにけれど、激しく少女は泣き始めた。
少女――夕実と一緒に暮らすようになったのは、それからすぐの事だ。
「ごめんね、泣いちゃって」
「ううん、全然」
寝室で二人寝転がりながらごろごろ夜のひと時を過ごす。
夕実はもう吹っ切れたようで、いつものように元気に満ち溢れていた。
「あー、今日もつーかーれーた」
「今日もなんちゃってさんだったの?」
「そ。死ぬ気なんて無くて、ちょっと怪我するつもりだったんだって――私が止めなかったら死んでるっつーの」
夕実は死ぬ気が無い人は食わない。むしろ、死のうとしても、何とか生きるように引き止める。
曰く、そうしても生きていけるだけの死があるからだそうで。
頭をなでると、嬉しそうに彼女はほほ笑んだ.
「お疲れ様でした」
「あんがと」
そう言って、彼女は、少し真面目な顔になった。
「死にたがりが、居なくなったら良いなとは思うけど――全く居なくても困るし難儀な体だよね」
「もしそうなったら、どうするの?」
「とりあえず、他の子みたいに、尊厳死分野に手を出しても良いけどさ――殺し屋さんはもう勘弁だし」
微笑む彼女は何を考えているかわからない。
でも、ずっと一緒にいられたらなと思う。
今は、まだ何のために生きているのかわからなくなるけど――彼女と居ると、ほんの少しだけ、その悩みがどうでもよくなる。
それはきっと、この胸に抱える想いのおかげだ。
「何にしてもずっと一緒に入れたら良いなぁ」
まだ、その正体は口にするのは臆病な僕には難しいけど。代わりに僕はそう言った。
「そだね――ふふ、ヘンなの。ずっと妹と二人きりだと思ってたのに」
そう言って、夕実はいきなり僕に抱きついてきた。
「ありがと。こんな私と一緒に居てくれてさ」
その温もりだけで、なんかもう、色々十分だった。
fin