一生のうちで、一度しかない時間の前に




 私は汽車に乗っていた。
 汽車といえば聞こえはいいが、残念ながら蒸気で走るわけではない。
 エンジンがディーゼルで、電気式のモーターではないだけ――ありていに言うと電車の形をしたバスである。
 ただ、私はこのバスもどきを汽車と呼ぶことを気にいっていた。
 何しろ、響きがいい。夢があるじゃないか。
 がたんごとんと鈍行のそれは延々と遠い目的地へと向かう。
 何もしなくていい、揺られるだけの自由時間。
 ふと、視線が窓に向かう。そこに浮かんだ私は上機嫌な笑みが浮かんでいた。
 久しぶりの一人旅。それが例え、ただの移動でしかないにしても、旅はするだけで楽しいものである。
 上等の酒を飲んだ後のような余韻にひたすらつかる。
 どっぷりと、麻薬物質が頭の中を駆け巡る錯覚。
 上機嫌に外を見る。
 目に飛び込むのは、風に揺れる木々達。幾つもの葉が風に舞っては空を飛ぶ。
 やがて切れ目に見えた、険しい岩が立ち並ぶ急流。
 それはまるで、はるか昔の忘れ去られた風景。日本が日本でなかった頃の、遥か遠い幻想の中。
 ――私の頭に浮かぶ物語の種。
 田舎の山道でさえ、今の私にとっては異世界への扉。
 むしろ、人が少なく思考にノイズが入らない分、極めて好ましいとも言える。
 さあ、何を書こうか。
 そう考えるだけで心が躍り、心臓の鼓動が早くなる。

「次は――。――でございます。急停止する場合がありますので、お立ちになられているお客様はお気をつけください」
 
 突如車内に響く丁寧な、けれど無機質な合成音。
 高揚感をものの見事にぶち壊す、ごく当たり前の日常の音。 
 膨らんだ想像は中途半端な妄想へと降格させられる。 
 やがて、県境のトンネルを抜けると日常の景色が戻った。
 夜のそこは半端な曇天だった。

 当たり前のように。止った駅で慌しく、姦しく、学校帰りの学生達が入ってくる。
 向かい側の座席の娘さんのいびきが私に止めを刺す。
 
 ここは、本の中ではない。
 日常だ。
 決して、トンネルを抜けても、別世界など無い。
 退屈で、面白みも無い毎日を繰り返す、悲しむ気すらおきない当たり前の世界。

「今日は、雨ふるのかな、せっかくの式なのに」
 諦めた私は、溜息代わりに呟いた。
 どうでもいい、日常の戯言である。

「私今めっちゃ、むらむらしているんだけど、本当に大丈夫?」
 それは少し前、携帯での娘の言葉。
 一瞬、若い年頃の娘が何を言っているのかと呆れて声を失った。
 すぐに、私の聞き間違いであると思い至る。
 その沈黙を私が実は自信が無いのではないかと勘ぐったらしい、娘の溜息が電話越しに聞こえる。
 盛大なわざとらしい溜息。
 どうやら遠まわしに嫌味を言われているらしい。
「ちゃんとわかってるの、降りるところ」
 ぶっきらぼうな声。隠そうともしないのは、相当機嫌が悪いのだろう。
「わかってるさ」
 対する私の声も自然と声が硬くなってしまう。
 式場までの道はきちんと頭に組んである。
 事前に地図を見て、電車の時刻表を頭に焼き付けた。
 念のため、手帳に経路も記してある。
 はっきりと説明したのに、娘は納得言っていないようだった。
「とにかく、もし迷いそうだったら電話してよ。困るのは私達なんだから」
「ああ、わかった」
 全く正反対の事を思いながら、私は形だけの了承を口にする。
 一応納得したらしい娘はもう一度だけ、念押しのように小言を並べた後、電話を切った。
「心配してくれてるのはわかるけど、もうちょっと言い方があるだろう」
 私は電話が切れた瞬間そう漏らした。
 心配されること事態は嬉しくないわけではないが、ここまで言われると不愉快である。
 子ども扱いをされているようで、まだぼけてないぞ、と叫びたくなる。
 やがて、右肘で頬杖を突く自分が拗ねている様子なのに気付き、慌てて、姿勢を正す。

 静かにしてくれよ。
 気分を治そうと、想像を働かせていた矢先無機質な機械音の案内に、誰に対してでもない悪態を心の中で呟いた。
 気付くと目的地まで、もうあと僅か。
 きっと、娘が駅の外で待っているのだろう――その横にいるあいつも。
「何を言ってやろう」
 私は自然とそう呟いた。
 
 少し前、結婚を前提の挨拶にやってきたあいつ。
 あれよあれよと、物事は進み、あと少しで娘の夫になるあいつ。
 今思えば、出会い自作小説を見せようと思ったのはまずかった。
 本読みならいざ知らず、初対面の相手に紙の束を渡されても困るだけだろう。
――などと、今はそう思えるのだけれど、本音を言うとあの日のあいつの対応はちょっとショックだった。
 結構な自信作だった。それこそ、賞を取れるくらいだと自負するくらい。
 今思えば、応募する小説賞の説明を聞くあいつの顔色を、良く見るべきだったのかもしれない。
 目を白黒させていたのだろう。小説を読めと手渡した時あいつの心境はどうだったのか。
 やんわりと読むのを拒否されたその日、落ち込む私に妻は笑って言った。
「みんな、お父さんみたいに本の虫じゃないのよ。私だって、それなりに読むほうだけど、いきなり60ページの小説を渡されても、絶対断るわ」
 その通りである。
 あいつは、考えれば周到に予防線を張っていた。
 わざわざ夜に来て、この後娘に食事に行くからと我が家に滞在する時間を短時間だけで済むように。
 中々の策士であると、内心褒めてやりたくなった。同時に、まだまだ甘いぞ、とも。
 きっと、私が酒を飲める性質ならばもっと最初あいつがやってきた日上手く事が進んだのだろう。
 けど、私は酒が苦手だ。
 かといって、あいつが好みそうな話題など知らないし、今から知ろうとも思えない。
 だから、考えに考えた。
 どうすれば、私をわかってもらえるか。あいつと良い関係が出来るか。
 小説のプロットが幾つも出来るほど思考に思考を重ねた。
 やがて、思考の渦に巻き込まれ、案の定寝付けないくらいに悩みの袋小路に迷い込んだのだけれど。
 結局、格好つけず、素の私を見せることにした。
 私にとって、趣味であり、他の人にとって酒のようなもの――創作活動の結晶、小説を。
 もちろん、そうと決めたからには最高傑作を見せねばなるまい。
 そして仕上げた人生最高の出来の作品を、けれど、さり気なく何気なく、あいつに見せようと試みた。
 その結果、読むことすら、断られた最高傑作の行く末はあえて語るまい。

「次は―― 次は――」
 目的地を告げる、アナウンスが聞こえた。
 そろそろ、時間だ。
 私は慌てて立ち上がる。
 その拍子に、手持ちの荷物を床に落としてしまう。
 すると、先ほどまで向かい側でいびきをかいて寝ていた娘さんがさっと、荷物を拾って手渡してくれる。
「どうもありがとう」
「いーえ。どういたしまして。それより、急いで降りる準備しないと。娘さんの結婚式なんでしょ」
 不思議に思ってると、娘さんは何故か悪戯っぽく微笑んだ。
「携帯で話してるの寝ながら、なんとなく聞いてたの。一生に一度の晴れ舞台なんだから、ちゃんとしないとね」
 からかうように、娘さんは言った。
 私もおどけて、首をすくめた。
「どうかな。あいつが娘と一生仲良くいられる保証は無いし」
「じゃあ、ガツンと言わなくちゃね、良い夫さんになるようにさ」
 私は答えず、代わりに手を振って席を離れた。

 やがて、窓の外の景色がゆっくりと固定される。
 汽車の戸が開き、私は汽車を降りる。
 様々な喧騒が、何だか他人事のように思えた。
 駅の入り口までのごく短い距離、急にいろんな感情が浮かんだ。
 娘の結婚式なのに、あっさりしてる自分を、当然だと思っていたことに苦笑してしまう。
 結局逃避していただけじゃないか。
 さて、まずなんて言おうか。べたに、結婚おめでとうか? いや、娘を宜しく、それとも――

 考えている間に出口だ。
 娘と、妻と――あいつが立っていた。
 いつも以上にかちこちに固まって緊張しているあいつ。
 若造が。私は心の中で笑った。
 それはまるで、昔の私に本当にそっくりだったから。
 私に気付いた、娘が手を振る。
 私も手をふり近づく。
 やがて、声が届く距離。
 私は口を開く。
 ほんの少し後の未来、娘と永遠の愛を誓い合う、娘と一緒を添い遂げるであろう、そんな世界で一番幸福者なあいつへ向けて贈る最初の一言を。
「     」
 全てを察した、妻がどこか面白がるように微笑んでいた。
 空は、曇天から一転、透き通るほど晴れやかな青だった。

fin



 
 
 

 
 
 
 


 





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